八木山球場とベーブルース2

 

  八木山球場での試合は11月9日の第4戦。

 

 全日本の先発は武田可一。武田投手は名古屋鉄道局所属で昭和5年の都市対抗野球の準優勝投手だった。 

 

 

 「試合は好天に恵まれました。ルース、ゲーリックなど20人の米国選手は灰色のユニホーム、胴は真紅のレザーコートを着て全日本と対戦しました。

 

 米チームは、この日あわせて5本のホームランをかっとばしました。

 

 ルースは日本に来て初めて2本のホームランを放ったほか、ゲーリック、フォックス、ミラーが各一本打ちました。試合は7-0と米軍の圧勝に終わりました」  

(八木山物語)

 

 

もうひとつ

 

  

 「・・・(ベーブ・ルースが)この試合の3回裏、ライトフェンス越えのホームランを放った。 これがルースの打った日本での初めてのホームランである。

 

 次に打席に立ったジミー・フォックスは、ルースを上回る飛距離でさらに観客を沸かせた。外野のスタンドを完全に超える場外ホームランを放ったのである。

 

 それでも、フォックスの調子は芳しくなさそうだった。4試合を終えての成績は14打数3安打、4三振と振るわなかった。だが少なくとも3安打のうちの2本が、目の覚めるようなホームランだった。

 

 8回裏にはルースが2本目のホームランを放った。」

(大戦前夜のベーブルース)

 


 

 全日本はホワイトヒル以下の全米投手陣に抑え込まれ、4安打6三振で零封負けする。

 

  全日本 000 000 000 0

  全 米 202 000 03X 7

 

 勝:ホワイトヒル 負:武田 

 本塁打:ルース×2、ゲーリッグ、フォックス、ミラー

 

 

 

 ルースの最初のホームランは、スコアボードの右に叩き込まれ、その場所に彼の銅像が建てられている。アフリカ園のフラミンゴのいるあたり、園路を挟んだ向かい側である。

  

平成29年2月撮影。 左下オレンジ色のマーク がベーブルース像の場所

 

  すると2本目は…こちらは左中間に打ったということのようなので、もう少し東門入口寄り、同じアフリカ園のアフリカゾウのいるあたりの外周になると思われる。

 そしてホームベースが、は虫類館のあたりか。

 

 

 

ベーブ・ルースはこの年すでに選手として最晩年であり、監督就任の動きもあったという。結局、3か月後の1935年2月に長く慣れ親しんだヤンキースを離れ、ブレーブスにトレードされるのだが、ケガや守備・走塁の衰えに苦しみ、6月に引退を表明する。

 

 「大戦前夜のベーブ・ルース」によると、この時の函館・仙台遠征にはコニー・マック監督は帯同せず、函館の試合はルースが監督(プレイング・マネージャー)を務めている。

 仙台の試合も同様と推測され、監督就任の話もあったという当時のルースの立場を想像させる。

  

 

 それでも日本では、混合紅白試合を含め18試合で打率4割8厘ホームラン13本、打点33(大戦前夜のベーブルース)。神ってるというか、野球魔王。

 

 

 

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