奮投そして金字塔

 

 

 試合は1-0のまま、大詰めの8回裏へ。 

 

 

 「トップ打者のヘイズの肩を、ルースが後から叩いてなにか激励の言葉をささやいてボックスへ送る。

 

 沢村ニッコリ笑いながら、バネ仕掛けのように左足を空へ向けてハネ上げ、水車のように身体を回転させる投球フォームは、少しも乱れを見せない。

 

 たちまち三振にうちとるやつづくホワイトをも、三球三振、一番マックネアはショートゴロエラーに出たが、ゲリンジャー三球目にセンターフライ。」

 

 

 全日本も7回表二死一、二塁、8回表一死二塁の好機があったがいずれもチャンスを逃す。

 

 9回表も代打攻勢空しく無得点。

    惜しくも0-1のまま惜敗したが、沢村の名を不滅のものとした一戦となった。

 

 

全日本 000 000 000 0

全 米 000    000 10X 1

 

 勝:ホワイトヒル  負:沢村  本塁打:ゲーリッグ

 

 

 

   ウイキペディアによると、 ルースはこの試合でヒットで出塁した沢村にセーターを着せにいくなどのスポーツマンシップを見せ、「さすが大リーガーはやることが違う」と観客を感心させたというが、他資料では、この日沢村は無安打で四球もなく出塁していない。

 シリーズを通しても無安打である。

 

 もしルースのそういった美談が事実だとすれば、沢村以外の選手との混同か、他試合での四球等での出塁時の話ではないかと思われる。

 

  


 

 「ガン・マン」誌創刊号の編集後記に、「わが国ではおそらく初めてのアクション雑誌のお目見え…」との記述がある。

 西部劇ブーム到来の時代、白木氏の文章も’60年代の熱を感じさせる。

 

 

 沢村対全米打線の対決が各打席の配球にまで踏み込んで生き生きと描写されているのは、当日のスコアブックやさらに詳しい取材資料があったということなのか、白木氏のクリエイティブな筆力によるものなのか。

 

 仙台での試合も詳しい記録や資料が残っている可能性があるということだろうか。

 

 八木山球場の試合についても、できるものなら、全日本の攻撃イニングも含めゲーム全体の再現を読んでみたいものである。

 

 


終焉

 

 ・・・沢村はその後巨人軍に入団し、戦前を代表する不世出のエースとして大活躍するが、1938年、兵役に召集される(手榴弾の遠投78mの記録があるという)。

 

 中国戦線で左手に銃弾が貫通する負傷。マラリアにも感染。

 1939年の除隊時には手榴弾の投げすぎで肩を壊し、サイドスローでしか投げられなくなっていた。

 

 それでも技巧派に転身し、見事な投球術でノーヒットノーランをなしとげる。

 

 1941年5月に結婚。10月には再び召集されフィリピン攻略戦に参加。

 

 1943年に日本に戻り巨人に復帰するが、もはや野球ができる体ではなく、1944年に引退を表明する。

 

 1944年10月に3度目の召集令状。フィリピンに向かう途上、12月2日に台湾沖で乗船していた輸送船が米潜水艦の雷撃を受け沈没、沢村も運命をともにする。

 草薙球場の試合から10年、満27歳。

 

 12月2日は、10年前にルースをはじめとする大リーグ選抜チームが日本での親善日程を終え、神戸港を出港した日だった。

 

 

   ジャワの極楽  ビルマの地獄。  生きて帰れぬニューギニア・・・

 

   米軍攻勢の主正面となったフィリピンも戦闘と飢餓と病魔は苛烈悲惨であり、沢村の原隊の第33連隊(第16師団)もレイテ島で玉砕している。

 

 たとえ無事に上陸できたとしても、日本に生還できる確率は限りなく低かった気がする。

 

 

 

 

  ウイキペディア「沢村栄治」は、日米野球後の沢村についてこう記載している。

 

 京都商業学校卒業後には慶應義塾大学への推薦入学がほぼ決定していたが、正力松太郎が強引に口説いて同校を中退させた。

 

 正力は「一生面倒をみる」とまで言ったという。

 しかし、巨人は負傷して帰った沢村を解雇し、約束は守られなかった。

 

 また、2度(註:3度?)も召集を受けたのは中等学校(旧制)中退であったからという説をとれば、中等学校を中退しての巨人入りは沢村のその後の運命を左右してしまったと言える。

 

 (中略)沢村の父親である賢治は、戦後のインタビューで、「栄治は中等学校中退だから。もし、卒業していたら、こんなに何度も(招集が)こなかった。すべては私のせいです。」と涙ながらに繰り返したという。