駱駝と瓢箪と白山神社

◆白山神社と駱駝

 

 優れた画人でもあった遠藤曰人の作品に「ぼんぼこ祭り図」(仙台市博物館)がある。

 

 今なら「ウォーリーを探せ」のような細密な描き込み。

 祭り囃子や見物の民衆の雑踏とぞめき。踊る一団の熱気や興行師の呼び込みなど、祭りのにぎわいの臨場感にあふれている。

 

 描く本人も童心に帰り、心も、手に持つ筆も躍っているような、印象的な一幅である。

 

 

 

■東北歴史博物館HP 「平成22年特別展」(現在は見れない)からの転載

 

■遠藤曰人については 榴岡公園1 宮城野のへらし方 参照

 

 

 

 この「ぼんぼこ祭り」は、木の下白山神社の例祭の別名だったという。

 

 

 

 白山神社は,陸奥国分寺が創建された時に守護神として祀られたとされる神社で,後に国分(こくぶん)氏の氏神となり,伊達家からも尊崇(そんすう)された(仙台市HP「仙台市の指定登録文化財」)。

 

  木ノ下白山神社 薬師堂駅から700m徒歩8分

 

 

 


白山神社

 

 国分寺薬師堂の北東にある国分寺鎮守の神社。

 

 陸奥国分寺とともに建立されましたが、戦火で焼失し、のちに国分重盛が再興、さらに江戸時代に入ってから政宗が仙台総産土神(そううぶすながみ)と定め、2代藩主忠宗以降も歴代藩主が社殿の補修などを行い厚く保護しました。

 

 3月3日の例祭は城下では東照宮の祭りにつぐにぎわいで、流鏑馬(やぶさめ)や、流鏑馬の的(まと)を奪い合う「的ばやい」、舞楽も行われる活気あるものでした。

 

 祭りでは決まって火伏せの縁起物「ぼんぼこ槍」や「木ノ下駒」が売られ人気を集めました。

 

 白山神社の例祭には「ぼんぼこ祭り」の別称がありました。

 

 見せ物小屋まで立ったにぎわいのようすは、遠藤曰人(えんどうあつじん・江戸時代の俳人)の絵「ぼんぼこ祭り図」(仙台市博物館蔵)に細かく描かれています。

 

 現在、社殿は県指定の文化財となっています。

 

 仙台市ホームページ「若林区の魅力発見(平成14年度仙台開府400年記念事業) 幹道が通りマチがあった」

 

 

 

 

「ぼんぼこ祭り図」には、見世物小屋も登場する。

 よく見るとその看板にはラクダ然とした動物の姿が描かれていて、のぼりの旗の字も一部が隠れているが「らくだ」と読める。

 遠藤曰人が祭りを見たその日、白山神社に駱駝がいたということなのか

 

 

 この間の事情について仙台市博物館の内山淳一氏は

験見楽楽「絵が語る動物たち」

https://www.smma.jp/column/%E7%B5%B5%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%81%9F%E3%81%A1-2/

の中で、

 

 

 「ラクダも人気がありました。

 

 文政4年(1821)、長崎にアラビア産の雌雄(しゆう)2頭のラクダがやって来ました。

 このラクダは興行師の手に移り、西国をめぐって2年後には大坂に到着します。

 

 これまで出版物の挿図などを通じてフタコブラクダだけを見てきた人々は、背中の肉峰(コブ)が一つしかないのを不思議がり、一部では贋物(がんぶつ=にせもの)と疑われたこともあったようです。

 

 しかし翌年に廻ってきた江戸では見世物として空前の大当たりをとることになります。「駱駝(らくだ)節」という名の流行歌にもとりあげられ、錦絵はもとよりラクダの専門書まで出版されているのです。

 

 掲出の「駱駝図」(仙台市博物館蔵)は、仙台藩のお抱え絵師・菊田伊徳(きくたいとく/1785~1851)がこの江戸でのスケッチにもとづいて描いたものです。

 

 さらに2年後、名古屋で見世物となった時には、ラクダのおもちゃやラクダを描いた扇子・たばこ入ればかりか、ラクダ双六・ラクダ人形・ラクダ凧・はてはラクダ水入れまで売り出されたといいます。

 

 まさに現代の玩具メーカー顔負けのグッズ開発が行われたわけです。

 

 ところでこのラクダ、その後どうなったか定かではないのですが、北国を廻ったとの記録があります。

 

 もしや仙台にも来たのでは、と期待されるところですが、実は仙台の俳人・遠藤曰人(えんどうあつじん/1758~1836)が木ノ下白山神社の祭礼の賑わいを描いた「ぼんぼこ祭図」(仙台市博物館蔵)の中にラクダの看板が見えるのです。

 

 当時このラクダは多くの摺物(すりもの)などで紹介されたこともあり、仙台のような都会で見世物に贋物を出したとは考えにくく、これはやはり本物だったと考えてよいのではないでしょうか。

 

 当時の記録をたんねんに探せば、「駱駝」の2文字が見つかるのではないかと思います。」 

 

と述べている。

 

 

また、蹉陀庵主人氏は、労作「見世物興行年表」文政9年の項

http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/cat_50048838.html   

 

 白山神社では毎年三月三日よりぼんぼこ祭りが行われ、仙台藩士遠藤日人が「ぼんぼこ祭」の賑わいを描いた思い出の絵を残している(仙台市博物館蔵)。

 

 そこに駱駝の見世物小屋が描かれている。

 

 もしここで興行したとすれば、文政八年十二月に下総国(茨城県)豊田郡水海道村で興行していることから、そのまま東上し仙台に入ったと考えるのが一番自然で、文政九年に立項したのだが、ただ看板に駱駝が一頭しか描かれてない事、小屋の雰囲気が歌舞伎小屋のようで、芝居櫓が上り、役者の看板のようなものが六、七枚並べられているなど、疑問点が甚だ多い。

 

 文献の裏付けが俟たれる。

 

と、やや懐疑を含みながらも述べている。

 

 

 

 

 前掲「見世物興行年表」によると、文政4年(1821)にオランダ人によって長崎に持ち込まれた駱駝は大人気を博し、この頃は興行で全国各地を行脚している。

 

 文政8年(1825年)11月 千葉県銚子

 12月 茨城県水海道

 文政9年(1826年)11月 名古屋

 

 名古屋へは加賀や岐阜を経て来たということのようなので、その間に仙台方面を経たこともルートとしては十分にあり得るように思われる。

 

 

 

古典落語の前振り。

 縁日の見世物小屋の呼び込みで「さァさァ山でとれた六尺もある大イタチだよ!」

 その声にひかれ高い木戸銭を払って入ると、中には六尺余りの大きな板の真ん中に赤黒い染みが。

 実に何とも、これが<大板><血>・・・

 

 とかではなく、200年近く前に南蛮渡来の本物の駱駝が仙台の地を踏んで庶民の目を楽しませたという、小さな歴史ロマンであってほしいと思ってしまう。

 

 

 

 


◆千成瓢箪とぼんぼこ槍と白山神社

 

 ところでこの「ぼんぼこ祭」に関しては、今は削除されているようであるが、

平成22年ごろの陸奥国分寺のホームページの記録  http://archive.fo/XjwT  

で、その名の由来となった「ぼんぼこ槍」についての説明を見ることが出来る。

 

 

 

 

 薬師堂のボンボコ槍(梵鉾槍・坊鉾槍)は、仙臺藩祖伊達政宗公の陸奥國分寺への篤い信心を物語るものだと伝えられています。


 政宗公は豊臣秀吉の命令により、朝鮮へ出兵(文禄の役)させられた際、陸奥國分寺の御本尊薬師如来の御加護を頂いて無事に帰国出来たといいます。

 

 そこで、その恩に報いるため伽藍を再建して、「奥州鎮護の根本道場なれば千本槍を奉納し、天下泰平の礎とせん」という誓いを立てられました。


 慶長元年、國分盛重を追放して仙臺を掌握した政宗公は、慶長10年より陸奥國分寺の復興事業に着手し、薬師堂・長床・白山宮・鐘楼など主だった建物の再建を果たされましたが、

 

天災(地震・台風)が相次いで藩の財政を著しく圧迫した(または徳川幕府に軍備増強と疑われることを懼れた)ため、千本槍を揃える事は遂に出来なかったのです。

 

 それでも、仏前への誓いを違える訳にはいかぬ。と、思案の末、竹串の先端に剣先の御幣を挟んで槍に見立て、文禄の役後に軍功有りとて秀吉から使用を許されたという馬印(纒)の千成瓢箪を結び付けて薬師如来の宝前に奉納したのでした。


 これに因んで、

  「小さな鉾槍(纒)を象った物」なので坊鉾槍、

  「仏殿に奉ぜられた鉾槍」の故に梵鉾槍

 

と呼ばれ、陸奥國分寺の鎮守神である白山宮の節句祭の折、境内にて開運・厄除けの縁起物として頒布されるようになったのです。

 

 

 以下はこの時の逸話について2ちゃんねるまとめから拾ったもの。

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ 

-伊達政宗の朝鮮行の船に乗る老僧の話-

  

秀吉の朝鮮出兵に伴い、

政宗もまた兵を率いて、備前名護屋から出航した時の事。

政宗が船の中を見回していると、見知らぬ老僧が乗っていた。

 

誰何の問に、老僧答えて曰く。

「自分は宮城郡国分寺に住む僧で、中国に渡って法を求めたく思っている。

殿が朝鮮に渡ると聞き、お供の船に紛れ込もうと思ったのだが、

誤って御座舟に乗ってしまった」

 

そう説明して謝罪する老僧に、政宗は同行を快諾し、

逆に航行の安全祈祷を願った。

 

やがて朝鮮から帰国することになり、

政宗は釜山から再び船に乗った。

 

するとこの船に、またあの老僧が乗っていたので、

政宗はこれを喜び、手厚くもてなした。

 

さて。後日になって政宗は国分寺に使いを出し、

船に乗っていた老僧の事を尋ねたが、

国分寺からの返答は、そのような老僧の事は誰も知らないということだった。

 

政宗は、あの老僧は薬師如来の化身で、

自分を憐れんで擁護してくれたのだろうと、深く感激し、

薬師堂や白山神社、仁王門を建てることにしたという。

 

 

 曰人の「ぼんぼこ祭図」も、よく見ると一番上の店でぼんぼこ槍?が店に並べられており、最下部にはそれを担いで歩く大人や子供の姿が描かれている。

 

 白山神社では今でも「ぼんぼこ槍」や瓢箪がお守りや縁起物として頒布され、また、毎月8日に薬師堂で行われる「手づくり市」のシンボル的な存在として、参詣者や参加者に親しまれているという。 

 日本全国郷土玩具バーチャルミュージアム:民芸館:宮城県篇(2)

    http://www.asahi-net.or.jp/~SA9S-HND/agal14_2.html

 現在とそれ以前のぼんぽこ槍が掲載されている。 

 

 

 

 

白山神社に奉納されている瓢箪


 

 

 伊達政宗のエピソードとして、大阪の陣での「瓢箪から駒※」の逸話が知られている※が、慶長19年(1619年)の冬。

 北条氏との同盟関係を断ち、小田原城を囲む羽柴勢に参陣、帰順してから四半世紀。

 政宗は豊臣氏を討つ大坂城攻囲に参加する巡り合わせとなった。

  

  ※瓢箪から駒

「この役(大阪冬の陣)で和睦が成立し、諸大名はみな閑暇(ひま)になった。

 

 それで陣中では、急にもちあがった話として、どこでも景品をだしての香合(こうあ)わせが行 れた。

 ちょうど政宗がそこに行き会わせたのを幸いに、「香を嗅(か)いでご覧なされ」といわれて勝負した。

 

 誰もが鞍の泥障(あおり)とか弓矢などを景品にだしたが、政宗は腰につけていた瓢箪(ひょうたん)をだした。

 みなおかしな景品だとして、それを取る者はなかった。亭主の家来が、これを取ったので、事なく終わった。

 

 ところが、政宗が帰るときに、乗ってきた馬を飾りをつけたまま「ほら、諺(ことわざ)通り瓢箪から駒がでたぞよ」といって瓢箪を取った者に与えられた。

 

 はじめは、奥州の大将の景品ともあろう品がといって笑っていた者も、このときになってうらやましがったという。」

 

  名将言行録 現代語訳(岡谷繁実。 訳:北小路健・ 中澤惠子) 伊達政宗編「香合わせの景物」

 

 

 

 伊達軍は冬の陣では講和後の大阪城外堀埋め立て工事を担い、翌年の夏の陣では道明寺の戦いで後藤基次、真田幸村勢等と激戦を繰り広げる。

 

 

 

 ぼんぼこ槍の由来をめぐる秀吉とのいきさつが史実とすれば、戦国の生き残りを賭け権謀術数を駆使した、文字通り鎬(しのぎ)を削るような苛烈な争闘の間をくぐって、大坂の陣で空しく潰えた豊臣家の馬印<千成瓢箪>が、かたちを変え、仙台の地で信奉と敬愛をもって伝承されていることになる。

 

 宇和島伊達家七代藩主、伊達宗紀所用の兜※前立ての瓢箪が、豊臣秀吉の千成瓢箪の一つで、現存する唯一のものと伝えられていることと合わせ、奇しき縁というべきだろうか。

 ※藍白地黄返小桜染革威鎧 

 宇和島市ホームページ https://www.city.uwajima.ehime.jp/site/sizen-bunka/55yoroi.html