杜の都れんが下水道窟 2

大正期

 

    仙台市水道50年史は、東北新聞(明治30年9月)の記事として「目下の焦眉の急とする下水工事を断行して、公衆衛生の基礎を確定し、追て市の進捗発展に伴い上水道工事をも起こし・・・」を紹介しているが、大正2年には下水道に引き続き仙台市の上水道の創設工事が開始され、同12年には市内への給水が開始される。

 


 ところで、上水道の技術の進展と日本人の寿命の関係について、元建設省河川局長の竹村公太郎氏は、著書「日本史の謎は「地形」で解ける」の中で、概略次のように考察されている。

 

 近代水道の普及率上昇にもかかわらず、明治末期から大正10年頃にかけて日本人の寿命は低下傾向を示し大正10年に最低を記録する。しかしその後は上昇に転じ、現在に至る。

   平均寿命と密接な関係にある乳児の死亡率、死亡数も大正10年から劇的な減少に転じる。

 

※日本の水(国土交通省 水資源部)から転載

  

    

 分水嶺となる大正10年に何があったのか。

 

 同書は、乳児死亡数・率の減少要因が、大正10年に東京市で開始された水道水の塩素消毒にあったとし、その背景として、ある化学会社の社史を引きながら、シベリア出兵の歴史の中で開発された液体塩素技術が、水道水消毒のために転用された事実を指摘している。

 

 当時、陸軍はロシア革命に伴うシベリア出兵に際し、猛毒性を持つ塩素ガスの軍事利用に向け、液体塩素の製造プラント開発を化学メーカーに依頼したが、シベリア撤兵により不要となる。これが民生用に転用されたというのである。

 

 では陸軍を抑え、軍事機密である液体塩素の民生利用を速やかに推し進め得る力と知見を持っていた人物は、果たして誰か?

 

 このミステリーに竹内氏は、それは当時の東京市長であり、シベリア出兵時に外務大臣を務めていた後藤新平(ドイツ・コッホ研究所で医学博士号を取った細菌学の権威でもあったという)だったと推論している。

  

日本の水(国土交通省 水資源部) 

・ P.7に水道整備率と水系伝染病患者、乳児死亡数、塩素消毒について記載がある。
   http://www.mlit.go.jp/common/001035083.pdf

 

ニッセイ研究所

  ・脚注3の考察は意味深いものがある。

            http://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=41369?site=nli

 


 

 仙台市の上水道で塩素殺菌が始まったのは大正14年10月である。

 

 10月中旬の陸軍大演習のため摂政の宮(後の昭和天皇)の来仙が予定されていたところ、間近の10月5日に水源地の上流で腸チフスが発生する。このため急きょ「米国専売二係ル塩素滅菌機」を東京の会社に発注して15日に中原浄水場に設置、摂政の宮滞在中の16日から26日まで塩素滅菌を行った。

 

 新聞では「市水道ノ大殺菌、絶対安全」と報じられた塩素滅菌・・・当時は夏場の伝染病発生期だけの滅菌機使用だったが、上水の管理には最新の注意を払っていたという。

(水道50年史)