森茉莉3 風に吹かれて

4月になれば彼女は

 

 

 森茉莉の再婚の相手は東北帝国大学医学部教授(後に東北大学名誉教授)の佐藤彰。

 

 佐藤彰は1886年(明治19年)-1960年(昭和35年)。

 森茉莉よりも17歳年上で再婚当時は森茉莉27歳、佐藤彰44歳。

 

 佐藤には先妻との間に弘子、登世子の二子がいた。(遺児と書かれた資料を見た記憶があり先妻とは死別だったかと思われるが、明確でない。※)

 

 

※2019.1.9追記

  佐藤彰教授の先妻は、帝国大学医科大学の初代精神病学教授・榊俶(さかき・はじめ)

 の娘・令子(よしこ)で、1927年に34歳で死去。

  その後妻に嫁いだのが森茉莉。

 

        榊教授は、森鴎外の弟篤次郎と帝国大学医科大学の同級で鴎外とも親交のあった

 精神病学者・呉秀三の師だった。

 

  日本医師学会  岡田靖雄「先輩たちの筆跡」

  http://jsmh.umin.jp/journal/58-3/58-3_423-424.pdf

 

  同 「”統計論争”をとおしてみた森林太郎」

http://jsmh.umin.jp/journal/55-1/97.pdf 

こちらでは森鴎外論とともに、小関弘子(再婚時の佐藤教授の娘)氏の語る義母・

 茉莉のエピソードも登場するのだが、

 

 論者に

 

  「東京の森家に茉莉につれられていったときは、そこの雰囲気の暗さにおどろいた

 という(当時小関さんは小学4年生)。

  父に溺愛されて育った森茉莉が、のちのちまで生活人として失格だったことは、

 他の人によっても伝えられている。

  こういう人をつくりだすについて、父親の育て方の問題は否定しきれないだろう。」

 

 と評されてしまう・・・

  

 

 

 

 再婚の経緯については、森茉莉の実弟の森類(るい)が

 

 

 

 「自分がいつまでも生きていられるわけではないから、

茉莉を然るべき人に託そう、とやはり母は考えたのだろうか。

 

 杏奴(註:あんぬ。茉莉の妹で類の姉)の結婚にさし触る、という現実的な

問題もあったかもしれない。」

 

   森類「森家の人びと」所収「鴎外の末子の眼から」三一書房

 

 

と回想している。

 

 

 

 佐藤彰との縁談にはどんなきっかけがあったのか。

 

 この頃に東京帝国大学医学部助教授だった、異母兄の長男森於菟(おと)のつながり

なのか、陸軍軍医総監だった父鴎外や先妻をめぐる叔父・篤次郎の関係なのか、

あるいは他に何かしらの機縁があったのかは定かでない。

 

 ※佐藤彰は於菟の4歳年上。東京帝大医学部を恩賜の銀時計の成績で卒業している。

 

 

 

 

 

(最初の医学博士との縁談を茉莉の方から断った後)

 

 

  「 第2の縁談も医学博士であった。東北大学の教授である。」

 

 

 

 「ぱりぱりした堅い髪の毛を短く刈って七三に分け、手入れのいい

チャップリン髭(ひげ)をたくわえた、血色のいい紳士であった。

 

 博士は姿勢がいいところへ礼服に用いる高いカラーをしているので、

うなずくことができない。

 

 うなずかない顔は冷たく、ややいばっているように見えるものだが

博士のばあいいばっている感じはなかった。

きゃしゃな目がつねにやさしく微笑しているからである。

 

 とにかく人によっては役者のような美男だと言うにちがいないが、

絵草紙の鹿鳴館から出てくる紳士を思わせた。

 

 化粧をさせられ豪華な着物にデンと帯をしめ博士と並ばせられた茉莉は、

りっぱとりっぱの鉢あわせには見えたが、調和した夫婦とは思えなかった。」

 

 

 

 「茉莉と博士は上野公園を散歩したり歌舞伎座へ行ったり、

杏奴も僕も一緒に浅草の「金田(かねだ)」へ鳥料理を食べに行ったりと

いう工合の、見合いのあとの交際としては短くない往来をした上で結婚した。

 

 茉莉は人と共同生活ができない人なので、親兄弟でも一つ屋根の下に住むことは

落ちつかず重荷で苦しかった。」

 

 

 

 「式後、茉莉夫婦は上野から仙台へむかった。

残された三人はほっとし、へたへたとその場に座った形であったが、

妙に寂しかった。」

 

森類「森鴎外の子供たち」光文社カッパ・ブックス

 

 

 

 

 

 

 

 森茉莉は昭和5年7月に結婚して仙台に移住するが、8ケ月後の翌年の3月には

離婚して再び実家に戻る。  

 

 

 

 

  「先方も再婚者で、先妻の子である二人の少女がいた。

案に相違して、二人の少女と茉莉姉さんは仲よくなったらしいが、

同居の姑さんとはまずかったらしい。

 

 先天性主婦失格症だからやむを得ないが、ものの7,8カ月で

体よく帰された。

 

   この町に三越がない、歌舞伎座がない、と茉莉姉さんが不平を言うので、

それなら東京へ遊びにいっておいでと出されたまま、仲人から離縁を

言い渡されたのである。」

 

「鷗外の末子の眼から」

 

 

 

 

 「仙台の茉莉からはよく母あてに手紙が来た。博士の母堂のこと、

先妻の遺児である二人の小娘のこと、

町のようすなど達筆のペンで書かれたいた。

 

 

 里帰りというほど四角張ったものではなく一度帰って来たし、

僕たちも、ニ三度仙台へ行った。

 

最初は博士が庭さきへ隠居所を新築したので、

その落成を祝いがてら姉に会うという訪問であった。

 

 

 二度目は仙台の近郊の温泉に一泊して茉莉夫婦にあった。

 三人が博士の家に泊まって気を使ってもらうより、なんの遠慮もいらない

旅館に泊まって、双方往来したほうがいいという、母らしい流儀からである。

 

 泊まった翌日、博士が来て、温泉町を案内してくれた。」

 

「森鴎外の子供たち」

 

 

  

 この、(仙台には三越も銀座もない)あるいは(仙台には三越も歌舞伎座もない)は、

森茉莉のエピソードとして語られることが多い言葉であるが、

それは離婚に至る最終的な契機の中のひとつを端的に表現したものだろう。

 

 

 あまりにも唐突に結婚生活の終止符が打たれるまでの間に、様々な確執

(少なくてもその一面が上の「先方が離婚を決意した堂々たる理由」となった)

の蓄積があったことは想像に難くない。

 


 

 

 森茉莉の再婚相手の佐藤彰については、

 東北大学医学部のホームページから

→「関連サイトリンク集」 

→「サイトマップ」

→教室のご紹介の「小児科教室の歴史」

→歴代教授の「初代・佐藤彰」

 

でその略歴と業績、顔写真を見ることができる。

http://www.ped.med.tohoku.ac.jp/greeting01.html

 

 

 

 写真は結婚当時よりかなり後年のものと思われるが、

森茉莉が書簡の中で「偉大な、はにかみやな世界人」と評した面影の

残るような一葉である。

 

 

 

 また、そこに記載された略歴や業績からは、学問的にも極めて優秀で、

小児医学の進歩に多大な功績を残した人であることを知ることができる。

 

 

 

 

 上のホームぺージには

「東北大学小児科は勅令第137号をもって1917年(大正6年)9月12日に開講し、

翌年に佐藤彰先生が初代教授として着任しました」

とあり、今年2017年が開講100年、

来年が佐藤彰の初代教授着任100年に当たることになる。

 

 

 

 なお前に記した仙台在住の方のブログで、東北大学資料館のデータベースを

紹介されていたページがあったが、

「東北大学資料館HOME

→閲覧手続等→画像データの利用

→東北大学関係写真データベース

http://webdb3.museum.tohoku.ac.jp/tua-photo/」から検索して、

11葉の写真を確認できる。

 

 

 

 

 

 

佐藤彰については、帝京大学福岡医療技術学部医療技術学科の

ホームページでも逸話が紹介されている。

 

 

 

 同科の教授が学生向けにエッセイを述べる中で、

佐藤彰の著作から東京帝国大学医学部の学生であった時代のエピソード

 

(勉強の途中で次々に生じる疑問点について、

時間をいとわず夜の更けるのも忘れて徹底的に調べる態度)を引用し、

 

「このようなペースで勉強された先生は結局卒業までに一年余計にかかって

しまった。しかしその結果が恩賜の銀時計につながった。」

 

 

 

 この逸話(学問に向かう姿勢ー日々のたゆまざる努力の重要性)は、

その教授が東北大学医学部の学生だった頃に恩師から聞いたもので、

東北大医学部発行の艮陵新聞にも記載されているという。

 

 

 

 こうしたことが様々なかたちで語り継がれているところに、

佐藤彰の研究者、教授としての業績や評価の傑出した大きさ(高さ)とともに、

学部の中で周囲から敬愛される人であったことが

うかがわれるように思われる。

 

 

 

 

仙台からの手紙1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸福の黄色い郵便ポスト

 大崎市古川

 

 小堀鴎一郎※ほかによる「鷗外の遺産2」は、森(佐藤)茉莉が仙台から

母、妹あてに出した書簡19通を掲載していて、

森茉莉はその中の何通かで、佐藤彰の人柄や彼に対する思いを記している。

※小堀鴎一郎は森(小堀)杏奴の長男で医師

 

 

 

 この手紙での森茉莉の文章は彼女の面目躍如というか、

みずみずしい自由奔放さが翼を広げて飛翔するような躍動感にあふれている。

 

 

 いま読んでも全く古さを感じさせない新鮮さと屈託のない率直さと、

それだけにその後の展開から振り返って感じる切なさもあるのだが、

 

森茉莉は佐藤彰に対して(新婚当初として当然なのかもしれないが)、

身を焦がすような恋の対象ではなくても、

深い敬愛の情を抱いていたことがうかがわれる。

 

 

 

 

 

「私が佐とう(夫・佐藤彰)を多少恋する位好きなのも、

だれにも解らない先のことを考へてゐるからだ。

 

 きのふ歌舞伎座で両手を柱と背中の間に入れて立ちながらよりかゝって、

やせた頬、情緒と神秘を含んだ眼を寂しさうな感じにして

横を向いて何かかんがへてゐたところは、

どうしていゝかわからぬほどよかった。」

 

 

 

(佐藤彰の羽織袴姿に)その趣味もない風俗さえ、

偉大な、はにかみやな世界人の肌にまとわりついて、

ただのこの世の切れ地とは夢にも思はれぬ。

 

 私は併しこれをアキラには言はぬ。

夫婦愛を絶えぬやうに培っていく・・・」

 

8月29日 茉莉から杏奴

 

 

 

 

 「砂漠に陽が落ちて夜となる頃

(サーバクーニヒガオチテーヨールトナールコーロー)、

 

あれを佐藤が裸(ハダカ)の上に絹のワイシャツの古いのでこしらえた

こしまきをして唄ってゐるところは面白いよ。

 

 

 そんなところはこっけいだが、秋雨のふる今日の朝、

鏡のなかに裏のクリの木に青い実がたわゝになってゐるのがほんとうの距離

よりは不思議なほど近々と美しく映ってゐるからといって、

 

私に「来てごらんなさい、ここへ」と呼んで

肩へ軽く手をかけてみせるところなぞは仲々、情緒がある。

 

 

 なつかしい感じをこまかくこまかくあふれ出るばかりに瞳にこめて

私を見てから学校へ出て行った。

仲々すみにはおけないよ。」

 

    9月1日 茉莉から杏奴 

 

 

 

 

 「アキラがチャアリーの素顔の写真の載ってゐるたんすの前に立って、

情緒のこもった複雑な眼をぴったりと私の目に据えて、

 

「チャップリンはほんたうに尊敬してゐる・・・ほんたうによ」といった時、

私は或エクスタシー(陶酔境)に入ってしまった。

 

 

 二つの偉い男が向かい合って突っ立ってゐるのを見たやうに思った。

 

 

 私はアキラを恋してはゐない。

(私の今までのレーグル(じゃうぎ)ではかるとだ。

なぜなら今までの経験でもっと恋するといふ気持ちは強いからだ。

 

アキラをその人より先きに見たら、てっきりこれが恋だなと思ったらう。

ナタ-シャではないが)併し崇拝している。

 

 私は崇拝してゐる人間と同じ家に住んでゐるのは幸福だ。」

 

9月21日 茉莉から杏奴 

 

 

 

 

    茉莉はその他にも自分と佐藤彰の作った詩歌を手紙の中で披露し、

夫の歌を傑作と評したりしていて、

 

9月21日書簡の「その人」の推測はともかく、

佐藤彰が固いだけの人ではなく、

ユーモアもあり文学の方面でも豊かな感性を持つ人だったことや、

森茉莉が彼に対して深いリスペクトと信頼感を抱いていたことを伝えている。

 

 

  


 

 

 

歌舞伎座

 

 

 森茉莉の仙台時代の中には二つの歌舞伎座が登場する。

 

 

 ひとつは森類の上掲書の「仙台には三越も歌舞伎座もない」の歌舞伎座で、

東京・銀座の歌舞伎座。

 

◆本家<歌舞伎座>のホームページから歌舞伎座資料館

http://www.kabuki-za.co.jp/siryo/transition.html

 

 

 もうひとつは、書簡中に出てくる仙台の歌舞伎座である。

 8月29日づけ書簡で記した夫の様子は仙台歌舞伎座でのものであり、

手紙の前半に「仙台歌舞伎座(本郷座よりも小さい)で芝居をみた。」

とも書かれている。

 

 

 

 

◆仙台歌舞伎座

 

 「国分町に歌舞伎座が開場したのは大正9年7月で、

大正2年に建てられた開明座を改造整備したものであった。

 

経営方針がよかったのか、収容観客数1,500人という大きさが手頃であったためか、

以来仙台座よりは利用されることが多く、仙台の演芸・娯楽方面に多大の貢献をした。」

 柴田量平「仙台・東一番丁物語」

 

 

 

 戦前の市街地図での表示や開明座の地番からみて、

仙台歌舞伎座は現在の国分町二丁目7番にあったものと推測される。

 

 

 平成10年代半ば頃にそのあたりにラーメン国技場ができ、

「歌舞伎座の跡に国技場・・・」などと思ったりしたが数年でなくなってしまい、

今は居酒屋などのある飲食店ビルになっている。

 

 

 ちなみに1933年(昭和8年)4月、森茉莉が仙台を去った翌々年に

仙台三越が開店している。

 

 

赤線の枠内が国分町二丁目7番

 

 

 

 

 

 笹重の粒味噌

 

 

 もうひとつ、森茉莉の作品中に残る数少ない仙台の記憶として、

「贅沢貧乏(紅い空の朝から・・・)」に

 

 

 

 

 (牟礼魔利(むれマリア)は)

 日本酒と、醤油の上等、

問屋で買う上質の鰹節、八丁味噌、笹重の粒味噌、バタアを買っておくので、

葱か若芽(わかめ)、十円の豆腐、でもあれば、贅沢の味噌汁が出来る。」

 

 

 

 

 

「笹重」のモデルと思われる佐々重は、仙台味噌の老舗。

 

 

 ウィキペディア:

 

 「仙台味噌(せんだいみそ)は、伊達政宗が仙台城下に設置した

御塩噌蔵(おえんそぐら)と呼ばれる味噌醸造所で作らせた味噌に

ならって製造されている味噌のこと。

 

 米麹と大豆でつくられており、辛口の赤味噌である。 

風味高く、そのまま食べる事もできるため「なめみそ」とも呼ばれる。」

 

 

 

 佐々重のホームページから、粒味噌の商品。

  http://www.sasaju.co.jp/p2/sc-order/goenso-sc.html

  http://www.sasaju.co.jp/p2/sc-order/honbasendai-sc.html 

 

 

 

森茉莉4に続く