森茉莉1 森茉莉菌の微熱


森茉莉菌の微熱

   

 

森茉莉の名前をはじめて意識して見たのは、中野翠「ムテッポー文学館」の文庫版の中、もういい中年の年齢にさしかかってからのことである。



 

 

   「何しろこの人の手にかかったら、ガラスのびんにさしたアネモネも「アネモオヌ」と仏蘭西式に呼ばなければならず、そのアネモオヌの花の色は、

 

「摩利を古い時代の西歐の家に誘(いざな)ってゆき、花の向こうの銀色の鍋、ヴェルモットの空き罎の薄靑、葡萄酒の罎の薄白い透明、白い透明、白い陶器の花瓶の縁(へり)に泊まってチラチラと燃えてゐる燈火の滴、

それらの色は夢よりも弱く、幻よりも薄い、色といふものの影のやうにさへ、思はれる。

 摩利は陶然(うっとり)となり、文章を書くことももの倦(ものう)くなってしまうのだ。」

ということになる。」

 

 

    「安物のオリーブ色の蒲団は、その色がボッチチェリの宗教画の色調を連想させるという理由で、「ボッチチェリの蒲團」と命名されなければならないし、

たかがアリナミンの小壜も「金色(きん)の口金の、四角な、宝石のような罎」と形容されなければならない。」

「ムテッポー文学館」

 

 

   

 

 

 森茉莉が週刊新潮に「ドッキリ・チャンネル」を連載していた1980年代には、

時間があれば喫茶店で週刊誌やマンガ本を読みふける時期があった。

 

 なので、森茉莉の連載記事もどこかで目にしている筈と思うのだが、

恥ずかしながらそのころの記憶は全く残っていないのである。

 

 

 

 その後、森茉莉と周辺の何冊かを読み進むうちに、鈍感な身にも、

薄ボンヤリーヌ的にではあるが漠然と理解できたいくつかのことがある。

 

 

 森茉莉が戦前の半年あまりの短い期間、仙台に嫁いでいたこと

 

 

 世の中には「森茉莉病」とでもいうべきものがあって、

女性を中心にけっこうな人たち蔓延しているらしいこと。

 そして森茉莉の人と作品については、森茉莉菌に感染した(女)らに

 よって大概のことが調べ、語り尽されているらしいこと。

 

   

 元祖汚部屋・・・部屋を片付けない言い訳「私は森茉莉ファン」

 

 

 某巨大掲示板の一部で使われている「パッパ」「マッマ」「イッヌ」「ネッコ」

ど、促音を挟む一連の名詞の用法のうち、少なくとも「パッパ」は

森茉莉に最初の発生をみることができるしいこと。

 

  「私がものを言い始めた時、父のことをパッパと言ったので、

いつも来る客たちも出入りの人たちもみな父のことを森さんとも森君とも、

旦那様とも言わないでパッパと言っていた。」 

「パッパ(鴎外)のこと」森茉莉全集7

 

 そんな小さいときからこの父娘の間には、おのずから周囲を靡かせ同調させずにはおかない、あまりにも濃密な情愛の波動が発生していたのだろう。

 

 

 

 

 

 

森茉莉 明治36年(1903年)-1987年(昭和62年)

  

 ◆明治の文豪、森鴎外の長女として生まれる。

   ◆大正9年(1919年)、16歳で結婚。

 

 ◆大正11年(1922年)から翌年まで渡欧、フランスで夫やその友人たちと過ごす。

  この間に父鴎外が死去。

 

 ◆昭和2年(1926年)離婚。二人の子供を婚家に残し実家に戻る。

 ◆昭和4年(1929年)ころから、翻訳、随筆、批評等の文筆活動を行う。

 

 ◆昭和5年(1940年)、再婚して仙台市に移住するが翌年離婚。東京の実家に戻る。

  以後も執筆活動を続ける。

 

   ◆昭和32年(1957年)、「父の帽子」で日本エッセイストクラブ賞受賞。

   ◆昭和36年「ボッチチェリの扉」、「恋人たちの森」、昭和38年「贅沢貧乏」、

  昭和40年「甘い蜜の部屋」などを執筆。

 

 ◆昭和54年(1979年)、週刊新潮に「ドッキリチャンネル」の連載開始(昭和60年まで)。

 ◆昭和62年(1987年)6月6日 心不全のため死去。84歳。

 

 

※「総特集 森茉莉」(河出書房)所収の「森茉莉略年譜」をもとに要約

  

 

 

 森茉莉は、最初の結婚と夫との生活、離婚の経緯については、晩年に至るまで

さまざまな場所で述べているが、再婚と仙台での暮らしについては、

後年の著作の中でもほとんど触れることがなかったといっていい。

 

 

 そんな中で、森茉莉の仙台での生活についてこのホームページで拙文を

さらすことは、

本人が黙して語ろうとしなかった結婚生活(の失敗)を興味本位に掘り起こす

ことになりそうで、どうも居心地悪く躊躇するものがあった。

 

 

 けれども今年(2017年)が没後30年に当たるのを含めいくつかの偶然が

重なる中で、森茉莉に感じるほんの淡い機縁のようなものが微かに明滅する

気がして、

また仙台在住の方の森茉莉に関するブログ(残念ながら最近は更新され

ていないようである)に、少なからず触発されるところもあった。

 

 

 これらを通して、何か促されるような気分になったことは事実である。

 

 

 

 


仙台市元柳町71

 

 

 森茉莉は昭和5年7月、27歳のときに東北帝国大学医学部教授の佐藤彰と再婚し、

仙台に移住する。

 

 

 結婚に至る具体的な経緯については不明だが、再婚前の茉莉と森家の様子は

実弟の森類が「森鷗外の子供たち」「鷗外の末子の眼から」で触れている。

 

 

 仙台での住所は、仙台市元柳町71だったという。

(佐藤茉莉から母しげ、妹杏奴あて書簡 ー小堀鷗一郎編「鷗外の遺産2 母と子」所収)

 

 

 

 そこはどこにあったのか。

 

 

森茉莉2 に続く