熱投

 

 再び草薙球場。試合は運命の7回へ向かって進む。

 

  

「第六回。

ヘイズがピッチャーゴロい倒れたのち、沢村はじめてホワイトヒルに死球を与え、つづくマックネアが巧みにレフトへ流し打ち、一死ランナー一、二塁となって米軍はじめてスコアリングポジションを占めたが、期待の二番ゲリンジャーを迎え、沢村顔面を紅潮させて力投また力投、ついに六球目をレフトフライで二死をとる。

 

 つづいてルースが、かるがるとバットを素振りしてボックスに入ったが、いささか焦ったオドールのサインに二盗のスタートを切りかける。

 

沢村すばやくプレートを外してサード新富に送球し、ランナーを二、三塁間で挟殺にしとめた。」

 


 

  ホワイトヒルの三盗は助監督のフランク・オドールのサインによるものだったとされる(草薙球場の決戦)。

 

     オドールは現役の大リーガーだったが、この遠征ではチームの助監督的立場にあった。

   ※首位打者2回、最高打率.398、生涯打率.349、年間254安打

 

 

 大の親日家であり、1934年の大リーグチームの日本訪問の実現に尽力する。

 

 読売球団の愛称「ジャイアンツ」も彼の推奨によるものであり、戦後もアメリカチームの監督として来日して野球交流を推進するなど、日本におけるプロ野球の発展に多大な功績を残す。

    日本プロ野球の殿堂入りをした史上初の大リーガーでもある。

 

 アメリカの著名スポーツメディア「スポーティングニュース」が発表した「メジャーリーグ史において最も重要な40人」の32位に挙げられている。

 

 トップはベーブ・ルース。日本人で37位に野茂英雄がランクインしている。

 

 

 

 


 

 

 試合はいよいよ佳境、そして・・・ 

     

 

 「七回のトップはルース。沢村の気を抜くようなスローボールに、タイミングを合わせてルースがすくい上げたが、ピッチャーゴロ。

 

 つづくは今日第一打席で沢村に三振をさせられたゲーリッグ。

 

 一球目、真ん中にれいの直球がホップしてストライク。

 

   第二球、同じような球がやや高めに外れてボール。

 

 第三球、このとき、ふしぎなことに沢村が、久慈のサインをのぞいて首を横に振った。それまでは、この老練無比の老捕手のサインに一度として首をかしげたことのない沢村だったのに。

 

 沢村は投げた。胸元からアウトコーナーへにげる球。

 

 まちかまえていたゲーリッグは、腕も折れよと一振した。秋空に鳴りわたった快音、白球は矢のようなライナーとなって、アッという間にレフト観覧席へ。

 

 次打者フォックスは沢村の動揺を見越してすかさず初球をレフト前へ安打。つづくエブリル、ワンツーのあと直球をたたいて一二塁間突破。

 

 フォックス俊足をとばして三塁へかけ込むみごとなランニングを見せたが、次打者ミラー、平凡なショートゴロでダブルプレーを喫し、一点にとどまる。」

(草薙球場の決戦)

                       

 

 

 

 このとき沢村が変化球を投げる際に口元をゆがめる癖があるのを見破ったのが、ゲーリッグのホームランにつながったという逸話がある。

 

ゲーリッグ自身が見破ったとか、ルースの指示でチーム全員で沢村の癖を探したとか、ルースがゲーリッグに変化球の曲りっぱなを狙えとアドバイスしたとか・・・。  

 

 この日コニー・マック監督はベンチ入りしていなかった※が、意外な試合展開に驚き、本気になった全米チームの雰囲気を窺わせるエピソードである。

 

※選手以外のメンバーや夫人たちと行楽地を訪れていた。 (大戦前夜のベーブルース)

従って北日本遠征時と同様に、この日もルースが監督(兼選手)だったと推察される。

 

 


悲運の名捕手

 

 ゲーリッグの決勝本塁打をめぐるもう一人のキーマン、<老練無比>のキャッチャー久慈は盛岡市出身。

 六大学野球の後、函館の函館大洋倶楽部に所属し社会人野球で活躍。

 この日米野球でも日本チームの主将を務める。

 

 大日本東京倶楽部(巨人軍の前身)結成に際して主将就任を要請されるが、この昭和9年3月に大火に襲われた函館を離れることを潔しとせず、辞退している。

 

 久慈の尽力もあり、仙台での試合の前日、函館で日米野球第3戦が行われた。

 

 

 久慈は函館市議会議員としても函館の復興に力を注いだが、1939年8月、社会人野球の試合中にキャッチャーの牽制球を頭部に受け、脳出血で亡くなる。

 

 その全力プレーから、都市対抗野球の敢闘賞に久慈賞の名を残している。

 

 

 盛岡市の先人記念館に顕彰されている筈…である。