堺屋旅館1 日米野球の舞台裏


境屋旅館の場所

 

 昭和9年の日米野球、全米オールスターチームの仙台での宿は、境屋旅館だった。

    昭和9年の日米野球はこちら 

 

  

 

 

 「洋室が少なかった時代に境屋には洋室があったため、昭和9年(1934)年にベーブ・ルース一行がここに宿泊したのでした。」 

        田村昭編著「仙台の珍談・奇談(宝文堂)」

 

 

 「やがて一行は仙台に到着した。本州東海岸の人口19万人の都市である。その日の宿泊先である境屋旅館は木造二階建ての純和風の旅館で、近隣の家屋に埋もれるようにたたずんでいた。」              

 

「対戦前夜のベーブ・ルース」

 

 

 「試合後アメリカ選手は、境屋旅館に戻って着替え、食事をとると、妻との再会を楽しみに東京行きの寝台列車に乗った。」       

「大戦前夜のベーブルース」

 

2018.03.07追記

 

昭和6年の日米野球に関連して

 

 

 野球大使でマネジャーのハンター(ハーバート・ハンター)は旅館内を走り廻って

一行の世話をやいている。

 

 ゲ―リックは帳場に出てきて、墨をつぐ女中たちのしぐさを、珍しげに眺めていた。

 

 左腕投手で、世界一の高級12万5千ドルとりのグローブ(レフティ・グローブ)は、

両手をポケットに突こんだまま葉巻を口に食わえて歩き廻っている。

 

 どうした拍子かプッと一発。 当時の新聞は「12万5千ドルの屁である」と書いている。

 

(◆中略)

 

「境屋」は・・・昭和5年に内部が改装されていた。

 洋室には、華美な中国製のカーペットが敷かれ、暖房、大型の張包(はりつつみ)

椅子、あかぬけた家具と寝台が置かれていた。

 

 和室は、階下はガラス天井の温かなベランダ付き、階上は明るいガラス窓、

英国製ベロア―の窓掛け窓掛が付いていた。

 

 和・洋室とも各室には共同電池式のドイツ・シーメンス・ハルスケ・電話機が

備え付けられていた。

 

 そして”ラバトリー”は和洋両式とも、汚水処理層(いまの住宅用浄化槽)で
処理される水洗式であった。                        

                        速見英夫「仙台はじめて物語」

 

 

 

 境屋旅館の場所は「青葉通電話局南隣」だったという。「仙台懐古地図」のアプリ版で大正元年版仙台市全図と現在の地図を対照してみると、大正元年地図で該当地付近に「境や」の表記と旅館の記号⦿が読み取れる。

 

 現在の地図に置き直すと一番町2丁目、確かに青葉通のNTT電話局の南隣。ホテルパールシティ仙台のあたりである。 

 

グーグルマップのルート計算で青葉通一番町駅から220m

 

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到着時間

 

 ところでちょっと不思議なのは全米チームの行程である。

 

 「大戦前夜のベーブ・ルース」によれば、全米チームは前日の11月8日に函館で

午後1時から全日本と試合。終了後、5時半発のフェリーに乗船して本州に向かって

いる。

 

 函館から青森港まで、たぶん最短でも津軽海峡を船で3時間から4時間以上は

かかるとして、そこから蒸気機関車の牽引する夜行列車に乗り換え、境屋旅館には

何時に着けたのか? 

 

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