宮城野原3


せんだいはぎとミヤギノハギと宮城野の萩

 

 

 

 仙台市民図書館編の郷土史リファレンス本である「要説 宮城の郷土誌」は、

 

 「せんだいはぎとみやぎのはぎとの違い」について、二つは全然別な植物であるとして

 

 

 両者の大きな違いは、

 

「せんだいはぎ」は、春に黄色の花を開き

東北以北の海岸に自生するまめ科せんだいはぎ属の多年生草本、

「みやぎのはぎ」は秋紅紫色の花をつける栽培種で、

まめ科はぎ属の、やや草本性の低木であることです。』

 

と述べている。

 

 

 

また「みやぎののはぎ」と「宮城野の萩」については、

 

『万葉以後も古歌に詠みこまれた「宮城野の萩」は多い。

 ただしその「みやぎののはぎ」〔俗名〕の実物は

「みやぎのはぎ」(植物学上の和名)とは異なり、

 

今日も仙台周辺に自生するような、

きはぎ・つくしはぎ・やまはぎ等が主体ではないかといわれる。』

 

『植物学的に「みやぎのはぎは専ら庭園の栽培種であって、

正品の野生は未だ知られず、その由来もまた不明とされ、

広大な原野に自生するものではない。』

 

と記す。

 

 

 

 

 

 「詩歌の里こころの宿 宮城野」も、

 

    「しかし植物学者は、歌に詠まれてきた宮城野の萩は、

自生の木萩、山萩、筑紫萩で、

 

(宮城県の県花である)宮城野萩は、江戸時代園芸用に改良されたものでは

ないかと指摘している。」

 

という。(歴史の話題)

 

 

 

 

 郷土史家の高倉淳氏は著作「宮城野の木萩」で、

多くの古歌に詠まれた宮城野萩は「木萩」ではないかとの仮説を示し、

 

 

元禄期の民間地誌「仙台鹿の子」などをもとに

 

「 昔は鼓の胴を造れたほどの萩があったが、

 それは古説で今は草萩ばかりで、木萩はなくなっているというのである。

 

  本居宣長の「玉かつま」では 「みちのくの宮城野わたりの萩は、

 2丈あまりなる多し」とある。

 

  2丈とは約6メートルで、「多し」とあるから群生していたことを示している。」

 

と述べ、

 

 金閣寺の茶室に胴回り2尺(60センチメートル)ほどの萩の木の柱が

あったという幕末・嘉永6年(1853)の道中記の記述とも併せ、

 

「このような萩の大木が宮城野にあり、都人の目を驚かせ、

歌に詠みこまれたと考えられる」

 

と結んでいる。

 

 

 

 

 さらに植物分類学の泰斗である木村有香・東北大学名誉教授

 (東北大学植物園初代園長)は、宮城野の萩について、

 

 「宮城野の萩は宮城野萩とは異なり、今日も仙台周辺に自生する

    キハギ・ツクシ・ヤマハギ等が主体※1

 

 「宮城野の萩は仙台近郊のハギの分類からみるとツクシハギである」

 

 「ミヤギノハギが栽培され始めたのは、 園芸趣味が社会に広まった1650年代※2

 

との見解を示されていたという。

        (前出・高倉「宮城野の木萩」から再引用。

※1河北新報社「野草園春秋」の「宮城野萩」の項でも同旨見解を述べられている。)

 

   

※21650年は慶安3年、3代将軍徳川家光の治世。

     翌慶安4年に徳川家綱が4代将軍となり、由比正雪の乱が起きる。

 

 

 

 往時の宮城野は、現在その言葉から連想するよりもずっと野性味と鬱蒼感のある

萩の群生空間だったかもしれない 。

 

 

 高倉淳氏のホームページ「宮城野萩」

http://sendai-oldlocal-histry-takakura-kiyosi.saloon.jp/miyaginohagi.html 

 

宮千代加藤内科医院のホームページ「宮城「萩」名所めぐり」

http://www.geocities.jp/m_kato_clinic/#kyoudosi


面影

 

 

 ◆ 伊達藩では、歌名所の復活整備の一環として、代々宮城野原を動植物の

 禁漁保護区とし、管理・監視役の野守を置き、永野家があたった。

 

歴史の話題/詩歌の里こころの宿宮城野

 

 

 

 

 

◆ 宮城野にはこのほか秋の七草や名も知らぬ草花が無数に咲きにおい、

 雲雀や鶉が巣をつくっていたので、藩はここの狩猟を禁じ、

 野守を置いて監守させたので、活巣原(いけすはら)とも呼んだ。

 

 

◆ 昔の野守であった永野氏の邸内には、乳銀杏と呼ばれる古木がある。

  この高さは9丈、根廻り2条余もある雌株の大樹で、

 大小数十条の気根が乳房のように垂れ、太いのは周り5尺、下端は地中に入り、

 仙台地方における代表的な公孫樹(いちょう)の巨樹で、

 樹齢1200年を経たと見られている。

  奈良朝時代聖武帝の姥紅白尼の遺言で塚に植えたものと伝えられ、

 そばに姥神が祀られている。大正15年10月、天然記念物に指定された。

 

再編復刻版「仙台事物起源考」

  

 

  

 

 

 

 乳銀杏=苦竹のイチョウ=は、仙台市教育委員会文化財課の

ホームページ「仙台市の指定・登録文化財」によると、

 

幹周7.8m 樹高約32m 推定樹齢1200年。

 

 『幹から出た根の一種である気根がつらら状に乳房のように

多数垂れ下がっている様子から「乳銀杏(ちちいちょう)」とも呼ばれる。

 

 気根の最大のものは,周囲が1.6mにもなり,端が地面に達するものも

見られる。樹下にまつられている銀杏姥神には,母乳が良く出るようにと

お参りする人々も多い。

 

 

 

 

 

「仙台事物起源考」や仙台市ホームペ-ジでは、聖武天皇の乳母で遺言を遺したのは紅白尼と

 なっているが、乳銀杏のある永野家の当主だった永野栄助氏の発行された

 「宮城野の枝折(1914年)」では、

 紅白尼と同行した白紅尼が、紅白尼に遺言を遺したと記されている。

 

 

(聖武天皇の御宇國分寺を建てらるゝに際し、女官に紅白女といへるあり、

尼となりて此所に住まんことを願ひけるに、お許ありて皇后の守本尊たる正觀世音の像を

賜はりけれは、これを尼寺の本尊佛と仰きたり、

 

此紅白女と同行せられたる白紅女といへるありしか、是亦尼となりて紅白女と

同菴(庵)せんことをねかひ、お許しありて同菴したりけり、

 

或時白紅尼は紅白尼にいへるやう、

わらはこと畏くも今上天皇の御乳母となり、今は年八十を超えたれは

今日にも往生するやも計り難し、

わらは死になは必ず塚の上に銀杏樹を植てしるしとせられよ、

 

さらば世の乳の出ざる女に乳を授け得させんといひしが、まもなく往生したりければ

木ノ下の北八丁はかりを隔てたる所に葬り、一株の銀杏樹を植て標としたりしに、

歳を経るに従ひ繁茂して大木となり、

不思議にも樹皮垂下して乳房の形となり奇観いふはかりなし・・・)

 

 

 

 

 

 

※ ドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880-1938)も、

 来仙した時の日記に このイチョウのことを書いているという。

一般社団法人 日本樹木医会ホームページ

https://www.jumokui.jp/good_tree/pref04

 

 

 

 

 乳銀杏は、今も藩政時代に代々宮城野の野守の任に当たって来られた永野氏の

邸内にあって、乳の出のよくなることを願う女性が参詣に訪れるのだという。

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 また、永野邸には古来の宮城野萩の原種がわずかに姿を留めているとされる。

    (小原保固「宮城野萩に就いて」)

 

 

   「仙台事物起源考」も

 「(永野氏の)邸内には萩の根がわずかに保存されている。

 昭和6年にこの数株を貞明皇后※の大宮御所に移し変え、現に御所の庭や

 茶屋の前庭、また多摩御陵にも植えてある。」と記している。

 

  

 ※貞明皇后:大正天皇の皇后で昭和天皇の生母。

   大宮御所(吹上大宮御所)は、大正天皇の崩御後、皇太后となった

  貞明皇后のため昭和5年に赤坂御用地に造営されたが、

  昭和20年に空襲で焼失した。

  

    上掲宮千代加藤内科医院のホームページに、永野邸の萩の写真が掲載されている。

 

 


 

 

  制度的な<自然>規定からは地方官として赴任する地域や

公的に病を養生にゆく地域はおなじ季節が推移すると考えられた。

 だが人間の自然意識からは「みちのく」や「つくし」は域外の、

ちがった季節が推移する異空間であった。

 

 

 『古今集』の「離別」歌にはおなじ都の寺詣での折りの

<わかれ>も採られている。

 

 このばあいの<わかれ>は眼前の景物に対する視線の同一性が

分岐することであった。

景物も気候時刻も同じ自然に属していた。

 

 ・・・だが「みちのく」や「つくし」に旅立つ人への離別の歌は

季節を含蓄する<わかれ>である。                  

                                

「吉本隆明歳時記」

 

 

  

 

 

 

 

  現在ではかつての宮城野(原)の面影を見ることはできないが、

仙台駅東口から楽天生命パーク宮城に続く宮城野大通りの両側歩道には、

様々なモニュメントとともレリーフや句碑が設置され、

いにしえの歌人や旅人がみちのく宮城野の地に寄せた深い思いを想起させる。

 

 


 

戦前の宮城野原の風景


          鈴木翁二「マッチ一本の話」