尾形亀之助 カインド・オブ・ブルー 1

 

 若林区新寺四丁目にある森城山大林寺。

連坊駅で取り上げた法雲寺にもほど近いここは、土井晩翠の菩提寺でもある。

 

 山門前の歌碑には、晩翠の

「おほひなる 真昼の夢をみよかしと 生(おい)先長き子らに望まん」

の一文が刻まれている。

 

 山門前にある土井晩翠の句碑

 

 

 

 

 

 傍らに碑文を記した角柱も

 

 

 

 

 昭和25年、土井晩翠の文化勲章を讃える祝賀会が東京で開催された。

 席上、晩翠は、市内台原にある高山樗牛の顕彰碑の碑文※を引用し、

冒頭の句をもって謝辞の結びとしたという。

 (「土井晩翠 栄光とその生涯」土井晩翠顕彰会 仙台宝文堂、 「東北薬学専門

  学校戦没者追悼誌をめぐって」松山雄三)

 

※ 高山樗牛は仙台二高出身の文芸評論家・思想家。若き気鋭の鋭鋒として、

    明治批評壇の飛将軍と評された。

                しかし結核を発病、文部省の命を受けた海外留学を目前に辞退し、1902

        (明治35)年31歳の若さで逝去。

          1941(昭和16)年、台原の高台の地に記念碑が建立された。

 

          土井晩翠が引用したという碑文「幾度かこ々に真昼の夢見たる 

         高山樗牛瞑想の松」も晩翠の作。

   志半ばで逝った旧友・高山樗牛への哀惜と敬愛の思いを伝える。

 

 

高山樗牛の顕彰碑

 

 瞑想の松は、現在では高山樗牛の故事来歴よりも、

隠れた夜景スポットとして話題ににのぼることが多い

という。

 敷地の一角に展望台があり、市街を一望することが

できる。

 

 

 

 

 

瞑想の松

 

  推定樹齢650年あまりのクロマツで、市の保存樹木に指定

 されている。

 

  天神社の霊地を護るため、慶長年間(1590-1615)の初めに、

 伊達政宗の叔父の国分彦九郎盛重が植えたとの言い伝えがある。

 

  旧制二高(第二高等中学校)時代、下宿元の娘にかなわぬ

 恋をした樗牛。悲恋の苦しみを胸にこの地をめぐり、松の樹陰

 で瞑想にふけったという。

 

  ・仙台八十八選選定委員会「仙台あのころこのころ八十八年」

  ・松山雄三「高山樗牛と「瞑想の松」

  ・「高山樗牛瞑想の松」記念碑建立と萱場資郎 東北学院資料室

    vol.9 www.tohoku-gakuin.jp/archives/data/000046590.pdf

      

 

 

 「おほひなる真昼の夢・・・」は、30年以上にわたり母校・仙台第二高等学校の教壇に

立った土井晩翠が青年に寄せる、暖かで慈愛に満ちた強い肯定の眼差しが感じられて、

深く心にしみる一文である。     

 

 けれども一方で、その朗々と包み込む声調の対極にあるような世界が静かに忍び寄る

心の領域もまた、確かに存在してしまう。 

 

 

 


 

 尾形亀之助

 

 

 

明治33年 12月12日大河原町に尾形家嫡男として生まれる。尾形家はこの地方の

旧家で藩政 時代からの酒造家であった。

 酒家としての操業は亀之助が生まれる直前にやめていたが、多くの土地

家作を持つ県内屈指の素封家として運送会社や病院などを経営し、莫大な

資産を背景に悠々自適の生活を送っていた。

 

   曾祖父は大河原と尾形家の発展興隆に尽くした人で、尾形橋などの名が

尾形安平翁頌徳碑とともに残っている。祖父と父は無為遊行の趣味人であり、

俳句や書に親しみ、祖父は蕉雨、父は余十と号した。

                                    

明治37年  喘息の兆候あり。終生の持病となる。

 

明治42年 一家は仙台市木町末無11番地に転居。敷地約3,800坪余、

「尾花(すすき)お化けの尾形屋敷」といわれるほどの広壮な邸宅であった

という。

   仙台の尾形邸についてはこちらにも。

   杜の都のれんが下水道窟3 

 

大正8年 東北学院中学四年修了。第一高等学校を受験したが、不合格。百人一首

    に凝り、短歌を作り、初恋をする。

 

大正9年 出席日数不足のため東北学院中学を退学。石原純、原阿佐緒を中心に

仙台で創刊の文芸詩「玄土」に同人として参加。短歌を発表。

 

大正10年

~昭和7年 

大正10年 21歳。5月、森タケ18歳 と結婚。

大正11年 東京、本郷白山上に住み、生家の仕送りで生活。大正10年

ら本格的に絵を描くようになり、この年第二回未来派展出品。

 

  大正13年 美術系を中心とした前衛芸術グループ「MAVO」に参加。

 

  大正14年 処女詩集「色ガラスの街」を刊行。

 

   大正末から昭和にかけて「銅鑼」「太平洋詩人」「亜」など多くの

  雑誌に詩や詩論を発表し、昭和3年「全詩人連合」を結成。

 

   同4年に詩集「雨になる朝」5年「障子のある家」を刊行。

 

 この間、草野心平、北川冬彦、秋山清、辻潤、高村光太郎、吉行

エイスケらと交流を持つが、その一方で生家から多額の送金を受け

ては取り巻き連と放蕩を繰り返す。

 

 

 

 

 

 

 

 20年ほど前のNHK朝の連続テレビ小説で、作家・吉行淳之介、女優・吉行和子の

母、吉行あぐりをモデルにした「あぐり」が放送された。

 

 大正の末から昭和の初めにかけて、尾形亀之助はすでに吉行エイスケと結婚して

いた人妻・吉行あぐりに横恋慕し、彼女が経営していた新宿区下落合のバー「あざみ」

に通い詰めていたという※。

 

※「あぐり」の出演キャストには亀之助に相当する人物は見当たらない。

 原作となった吉行あぐりの自伝エッセイ「梅桃(ゆすらうめ)が実るとき」にも

 そのあたりの話は一切触れられていないので当然なのかもしれないが。

 

  バー「あざみ」をめぐる人間関係のエピソードや、当時の落合での<酔交>マップが

 こちらのサイトで紹介されている。

    https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-06-11

    https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-06-12

 

 

 

 

 

 

 昭和に入り金融恐慌、農村不況深刻化。生家の経営する商店、医院、運輸業も

貸し倒れが増え、現金収入が激減。

 

   亀之介の無頼と父、祖父たちの散在で家運は急速に傾く。

 

昭和3年 5月、妻タケと協議離婚。12月、芳本優17才と同棲。

 

昭和5年 この春より餓死自殺を口にする。8月、詩集「障子の無い家」刊行後、

家財道具一切を売り払い、妻の優、および年下の誌友二人と信州上諏訪へ。

「死ぬことが目的でした。(優)」

 

    約2か月間滞在後、帰京。以後多くの誌友と故意に遠ざかる。

 

昭和7年 3月、親族会議の取決めにより、東京を引き払って仙台に帰り、

市内木町末無11番地26号の生家の持家に住む。

 乱費を警戒した生家から現金を持たせられず、味噌、野菜など物資の

現物支給を受けて生活。

 

昭和8年 同番地の尾形家持家24号に移る。

 

昭和10年 「歴程」同人となる

 

昭和11年 尾形家の財政悪化。資金繰りのため、京都から札元を呼び

公会堂を借りて書画骨董の売り立てをする。

 

昭和12年 春、尾形家の債権者会議。膨大な借金を抱えながら豪邸で贅沢三昧の

暮らしをしている祖父安平が非難の的となる。

 このため、祖父安平、祖母もとは本宅を追われ、亀之助宅に同居。

 

昭和13年 祖父安平没。父十代之介が61歳で家督を相続する。

 

  7月、亀之助、仙台市役所税務部税務課の臨時雇員となる(市役所に

     提出した自筆の履歴書が伝えられている)。

  10月、同賦課係。月給33円。

 11月、妻の優が上京して帰らず。

 

 十代之助の妾宅通い、家族間の確執、親族の容喙などで債務整理進まず、

尾形家は瓦解の速度を速めていく。

       

昭和14年 4月、妻優仙台に戻る。7月、再び出奔。

 

 この頃、飯坂温泉の尾形家別邸、支配人の背任で転売される。

塩釜港の倉庫、港内運航荷役権も差配をしていた男に横領され、さらに

エビスビール販売権も手放すなど、尾形家経営基盤の崩壊進む。

        

昭和16年 2月、妻優三度目の家出。

 生家は膨大な借金でますます窮迫。負債整理のため、本宅の敷地と

持家の一部を東北配電に売却する。

 

 亀之助の住む24号の家も売却分に含まれていたため、妻子はそれぞれ

24号の家を出る。亀之助のみ立ち退かず、一人残り住んだ。

  健康すぐれず、喘息、痔疾、尿道結石症、腎臓炎に悩まされる。

 

 

 

 

 「悲劇的な尾形の運命が凋落して、尾形は家の財政的破綻から、妻子を養う

ために、仙台の市役所に勤務していると、人伝てに聞いていたので、市役所へ

行って、尾形に遇った。

 

 尾形は昔のおもかげなく、生気のない顔で、十数人の俗吏が卓子をならべて

腰かけている市役所の事務室の中でも、地下室のようなところにある、

責任のある地位のものなどの居らぬような、狭いところに、しょんぼりと、

 

黙々と腰かけて、長いキセルで煙草をのんで、何もせずに、誰とも話もせずに

いるような姿であったが、尾形が生まれて初めて勤めたのであろうが、これは

あまりにひどい境遇だと同情せずにはおられなかった。(中略) 

 

 尾形はもはや人生に何の愉快も感ぜぬ虚脱した老人のように、背中をかがめ

ている。」     

 

(高橋新吉「尾形亀之助のメモ」)

 

 

 

 

 

昭和17年

    9月末日 24号の家を東北配電に明け渡すこととなり、単見、支倉丁の

下宿屋に移る。

11月20日頃 長女と待ち合わせて食事。帰途、息苦しくなり、何度も肩を

叩かせる。この日も亀之助は酒を飲んでいた。

 

12月1日 夕方、国分町の路上にうずくまっているところを通行人に

見つけられ、通り合わせた役所の同僚に抱き抱えられて下宿にもどる。

 

 子供達が見舞いにゆくと、布団に上半身を起こしじっとしていた。

そして「廊下に誰かいるだろう」と云った。

また喘息の発作だろうと誰もあまり気にとめなかった。

 

12月2日 妻優が父十代之助とともに見舞うと、昨夜子供達が見た同じ

姿勢で、自分の胸を抱くようにして布団の上に半身を起こしていた。

亀之助の体は硬直したように自由にならなかった。

 

 同日夕刻近く、妻子によって手押しの寝台車で、木町末無11番地

住宅番号不明の空家になっていた尾形家の持家に運ばれる。。

          

   苦痛を訴える亀之助に父は医者を呼びにいき、優は子供達のため

  夕食の支度に家に帰った。

   そのわずかの間、同日午後6時10分、喘息と長年の無頼な生活から

  くる全身衰弱のため、誰にも看取られず息を引き取った。享年42歳。

  同日付けで仙台市役所税務課書記補、給4号俸となる。

 

 

 

※ 年譜は、秋元潔「評伝尾形亀之助」(冬樹社)、現代詩文庫「尾形亀之助詩集」(思潮社)

 その他を、引用も含め利用して作成。

なお亀之助の死をめぐる状況など、資料により細部に相違のある部分は、独断で適宜

 取捨選択して再構成した。

 

 

 

 

 

 

※※ 記載に当たり本文中にURLを記したサイトのほか、以下を参照している。

   ・秋元潔「評伝尾形亀之助」

   ・現代詩文庫「尾形亀之助詩集」

   ・鮎川信夫「すこぶる愉快な絶望」

   ・草野心平「新編 私の中の流星群」

   ・「尾形亀之助」1~13

   ・正津勉「小説尾形亀之助」

           ・鈴木溪「父の思い出、母の思い出」

      ・河北新報社編集局編「宮城文学夜話」

 

 

 

 

ー尾形亀之助2 に続く(予定)ー