藩政時代、仙台城下から塩釜、松島方面に通じる幹線だった塩釜街道。
かつて多くの旅人や物資の行き来で賑わったこの街道の名物の一つに
「案内の湯豆腐」があった。
案内の地名は「表側の沢」という意味のアイヌ語に由来するとも、
伊達政宗が岩切城の攻略に向かった際にこの付近の住民が案内役を務め、
城攻めを有利に導いたことによるとも言われている。
藩政時代は宮城郡小田原村。
仙台市HP「住居表示 旧・新対照表」によると、
案内地区は昭和55年に住居表示が行われ、
平成元年には政令指定都市移行により宮城野区となっている。
これらにより、従来の仙台市原ノ町小田原字案内の新町名は、
宮城野区東仙台5丁目、6丁目などとなった。
現在のJR東北本線東仙台駅の北側に位置する地域である。
案内の湯豆腐については、「鹽竈神社博物館開館十周年記念 一森山叢書」の中に、
郷土史家で宮城県文化財専門委員の三原良吉氏が、
「案内名物湯豆腐書留帳について」を記している。
これをかいつまめば、案内地区と湯豆腐の沿革は
◆塩釜街道は、昔は鹽竈から仙台へ運ばれる江戸方面の貨物や島浜の魚類の輸送路で、 鹽竈(神社)詣での人びとや塩釜の遊郭に通う人々で賑わった。
◆案内は小田原村の一集落だったが、 合の宿(※合の宿は間(あ)いの宿=宿場の間に 設けられた休憩場所=の意と思われる)として繁盛したほか、 湯豆腐で知られていた。
◆宝暦年間には街道に面するふもとに大蓮寺が建ち、門前には三軒の茶屋があった。 そのうち「中の茶屋」が湯豆腐を出していた菅野家の茶屋で、 歴代藩主をはじめ伊達家連枝の人びとも案内を通って出掛けた帰途には、 菅野屋で少休止するのが例であった。
◆菅野家に残る「案内湯豆腐書留帳」には、 明和4年(1767年)から明治元年に至る102年間のうち、途中数次の空白期間を 含みながら44年間にわたり、伊達家の立ち寄り(湯豆腐の用命)等の記録が 残されている。
◆案内名の湯豆腐は長く塩釜街道の名物として続いたが、 明治に入って伊達家の御用も途絶え、 明治20年に仙台塩竈間に鉄道が開通すると塩釜街道は急速に衰える。 名物湯豆腐もまた大正年中に廃絶した。
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現在の住居表示、東仙台六丁目付近。
「東仙台2丁目」の信号付近を拡大すると、大蓮寺の門前、利府バイパスに沿って北側に円弧状の生活用道路があるのが旧塩釜街道と思われる。
ちょうど道路形状のあるその付近、仙台から塩釜方向に向かって左手側に「中の茶屋(菅野屋)」があり、街道を行く人々に名物の湯豆腐を提供していた筈である。
旧鹽竈街道だったあたりと思われる生活道路と植樹帯。
塩釜・松島方面から仙台方向を見る。左側車道が利府バイパス。
湯豆腐の「中の茶屋」もこの辺りに。
また、東北大学百周年 平成年度東北大学付属図書館企画
江戸の食文化~スローフードのルーツをさぐる」
第四部「仙台藩の食事と名産品」(1)伊達家の食事
http://www.library.tohoku.ac.jp/collection/exhibit/sp/2005/e-tenji/list4/date01.html
では、案内の湯豆腐について次のように解説している。
(伊達家の)正月行事はほぼ一ヶ月に渡って続くのであるが、 三日に野初(のぞめ)という行事があった。 これは軍事訓練で青葉神社にはその模様を描いた絵馬が奉納されている。
その野初の際、立ち寄っていたのが案内名物湯豆腐菅野である。 案内は現在の宮城野区東仙台の旧地名であるが、 湯豆腐菅野は元禄から宝永・正徳の頃の創業ではないかと言われ、 明治二十年代まで同所で営業していた。
七代藩主重村が名物の看板を与えた。『年中行事記録』にも 野初で案内に行く場合についての記述がある。
菅野氏所蔵の『案内湯豆腐書留帳』を見ると、野初、鷹狩、塩竃神社参詣、 瑞巌寺墓参等の場合に、藩主が立ち寄っていたことがわかる。
『奥州名所図絵』にはその店の様子が描き残されており、 塩竃街道沿の賑わいが伝えられる。
案内の説明には「からき大根に蕃椒(とうがらし)すりがて、 柚の香り根葱(ねぎ)の匂ひも、とりまじえたる」とある。
柚は菅野家自家製で昭和20年代までは柚の大木が2本植えてあったと言う。
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菅野家に残る湯豆腐書留帳
「七代重村が名物の看板を与え、以後藩主がここを通過する場合 は必ず小休止した。菅野家には藩主のためだけの離れが建てられていたという。」
(写真、解説とも東北大学付属図書館のHPから引用)
案内名物の湯豆腐とは具体的にどのようなものであったか。
菅野家の「案内名物湯豆腐書留帳」を紹介する東北大学附属図書館のホームページ
http://www.library.tohoku.ac.jp/collection/exhibit/sp/2005/e-tenji/list4/006a.html
によれば
菅野氏の伝による湯豆腐の製法は以下の通り。
「水切して細く千切にした豆腐を器に入れる。 その器を揺すりながら熱湯を注ぎ豆腐を寄せる。 これに鰹節、醤油、自家製柚をかけて供する」
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豆腐を細く千切りにして熱湯を注ぐという独特の製法が興味深いが、
近年では地元でも案内湯豆腐の再現に意欲的に取り組んでいることが報じられている。
◆仙台市市民センタートップページ http://www.sendai-shimincenter.jp/から
>宮城野区> 東部市民センター> 私の町> フォトギャラリー>地域プロデユース「東仙台耀きクラブ」
同様に
>宮城野区>東部市民センター>平成29年度まち歩きボランティア育成プロジェクト
再現された案内湯豆腐(殿様用)
※上記プロジェクトHP掲載写真
三原良吉氏の上記文書には、案内の湯豆腐について触れられている江戸期の文献が
紹介されていいる。
そこにも
◆豆腐をせんのように細く切ってあつい湯に入れ、しょうゆを少しさして出す。
江戸の八杯豆腐のようだとか、
◆細繊毛髪のようで箸で挟んで客に供するが断絶しない。
実に珍羞(ちんしゅう。珍しくて美味しい御馳走)というに足りる、
「其製細繊毛髪ノ如シ。
箸ヲ用ヒテ之ヲ挟ミ、以テ客ニ供ス。柔脆断絶セズ。
時アリテ邦君ノ調膳ニ供ス。
是レ他邦ノ有ラザル所、実ニ珍羞ト称スルニ足ル」
とあり、細切り状の豆腐が案内湯豆腐の最大の特色とされている。
「細繊毛髪ノ如シ」 はさすがに白髪三千丈的な修辞なのだろうけれども、
上記の菅野家伝の製法では「水切りして千切り・・・」とされていて、
写真でも八杯豆腐のイメージとは一線を画すような細さに見える。
・・・百年の歳月を経て再びよみがえる案内・菅野屋の湯豆腐。
頭文字イニシャルD、<秋名>の藤原豆腐店とともに、
豆腐をめぐるプチ浪漫に思えてしまう。
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