八木山球場~仙台べいぶるうす


八木山の開発

  最近ではよく知られている話ではあるが、動物公園のアフリカ園、フラミンゴのいる池の向かいあたりにベーブ・ルース像が立っている。

 ここはかつて、日米野球の舞台にもなった野球場だったのだ。

 

 八木山は、藩政時代から昭和の始めにかけては越路山といわれ、仙台城の背後を守る天然の要害でもあった。

 越路には「山を越える路」のほか、「鹿が恋をして、恋路で駆ける山」というちょっとロマンチックな由来の話もあって、往時の深山幽谷の姿を偲ばせるものがある。  

 

 その後、南町にあった豪商「紅久」の四代八木久兵衛氏が山の荒廃を憂えて買収し、次の五代が昭和初期から開発に着手する。

 

 当時の仙台市の死亡率が全国第三位の高さ※ だったことから、緑深く新鮮な空気の溢れる八木山の地に、市民の健康増進のための一大レクリエーションの場をつくろうとしたものといわれている。

 

※石澤友隆「八木山物語」(河北新報社)によると、四代目久兵衛氏が、当時増加の一途をたどっていた「国民病」結核による死亡者(率?)が高かったのを気にしていたことや、氏の子息の多くが早世したといった事情がうかがわれるようである。

 

 現在の八木山橋の前身である吊り橋をはじめ、野球場、遊園地、アクセス道路など莫大な私費を投じての建設事業である。

 

 この大プロジェクトを推進し今日の八木山の基礎を築いた5代目八木久兵衛翁の銅像が、動物園の正面入口(東側入口)の前に建立されている。

 

 

 八木山の吊り橋は昭和6年に完成。仙台市民はその形の美しさや橋上のスリル、橋から見下ろす竜ノ口の四季の景観を味わった。

 

※旧吊り橋のショット

    ・仙台市広瀬川創成室のホームページ

    http://www.hirosegawa-net.com/kioku/kioku22

 

    ・SWさんのブログ

http://blogs.yahoo.co.jp/doha750116/30039511.html?__ysp=5YWr5pyo5bGx5ZCK44KK5qmL 

 

    ・Tさんのブログ

    http://minkara.carview.co.jp/userid/222145/spot/204989/ 

 

 

 「八木山物語」によると

 吊り橋は軍用道路として仙台市が維持管理することで許可され、

 

    ・自動車の重量は1トンを超えない

 

    ・速度は12.8キロを超えない

 

    ・1台だけ通過する

 

    ・人の交通量が多くなったときは自動車の通行禁止

 

という条件だった。

 

  揺れる吊り橋の床の隙間から見える竜の口峡谷はとてもこわかったという。

 

 


八木山球場の建設

 

  八木山球場は昭和4年~5年に八木家の八木山開発事業の中で設置された。他の遊園地や公園とともにいったん宮城県に寄付されたが、県は財政難から運営困難として八木家に返却、あらためて仙台市に寄付されたそうである(「八木山物語」)。

    

 両翼100m、2万人を収容可能な東洋一を誇る堂々たる野球スタジアムだったという。ちなみにいまのコボスタは両翼100m、中堅122mである(2004年の改修前は両翼91.4m)。

 

 ・白松がモナカのホームページ 「仙台の遺産」

    http://www.monaka.jp/isan/img/vol08.pdf 

昭和6年の日米野球

 八木山球場にはベーブ・ルースの来仙する3年前、昭和6年にも大リーグ選抜チームが訪れ、全明治大との試合が行われている。

 

   このときはベーブ・ルースは参加していないが、ルー・ゲーリッグや「スモークボール(球が速すぎて煙のように消える)」の異名を持つレフティ・グローブなどのスター選手が来日した。

 

 八木山球場での試合は13−2で全米チームが大勝したが、全明治大チームはレフティ・グローブからヒットを打ち、1点を奪っている。

     ・菊池清麿・日常随想・昭和博物誌  昭和6年日米野球-善戦する明治大学野球部

    http://25877386.at.webry.info/201303/article_2.html 

・こちらでは当日の球場の様子を写したが動画でUPされている。

 2分7秒過ぎから映る左投手が レフティ・グローブ?

      https://www.youtube.com/watch?v=csPuH1vViAY

 

 

   この試合の3回、全米チームの放ったホームランの一本がセンタースタンドの観客を直撃。唇を切り、歯を3本折って救急車が呼ばれるというアクシデントが起きる。

   このため、昭和9年の試合では外野席の観衆はホームランボールから身を守るために

グローブを持参したという。

(ロバート・K・フラッツ「大戦前夜のベーブルース」(原書房))

 

 

 

 

 2018.03.07追記

 当日の様子は、速水英夫「仙台初めて物語」の「様式トイレ」の項に詳しく伝えられて

いて、動画の映像と併せ見ると興味深いものがある。

 そこでは試合開始前のセレモニーについて、

 

 

 

 

 「試合開始に先立って伊勢久翁(市営バスの前身である仙台市街自動車株式会社の

伊勢久治郎社長)の挨拶、巻紙を広げて仙台弁での朗読、低音のサイレンのようで

意味不明。

下山東北学園教授の通訳、

 

 つづいて湯沢三千夫宮城県知事、渋谷徳三郎仙台市長の挨拶、三浦教授が通訳した。

 

 伊勢久翁の孫の花束、知事および仙台市街自動車株式会社からの記念品が

両軍に贈呈された。」

 

 

と記されていて、上記の動画ではその登場人物とおぼしき人々と当日の八木山球場の

様子が映し出されている。

 

 当日は球場に詰めかける人々で完成間もない八木山の吊り橋は左右に大揺れ、

警官が出動して規制する事態になった。

 

 仙台の人口の半数が球場に集まったのだという。

 

 

 

 

 また、同書は上記のホームランボールによるアクシデントについても、そのてん末を

紹介している。

 

 

 

 

「三回、0‐1後のやや高め速直球を(全米軍の打者の)カクレーンが打つと、

球はライナーで(高く上がらず直線的に飛び)

中堅観覧席に建つ国旗掲揚塔の旗竿の上部に命中するホームラン。

 

球ははねかえって下のコンクリートの壁に激突、観覧席に大きなどよめきがおきたとき、

球は三度(みたび)はねかえって、

早朝汽車できて外野で見物していた苅田郡宮村郵便局員の顔面を襲い、

前歯三本を折ってしまった。

 

 後日カクレーンが30ドルの見舞金を出してわびたので、「30ドルのホームラン」の

異名が付いた。」

 

 

 

 当時の円ドルレートを公式資料で確認したわけではないが、ネットの情報を参照して、

昭和6年当時は大雑把に1ドル=2円程度と想定する。(日本の金本位制離脱もあり

当初の1ドル=1円から円安が進んでいた)

 

 すると30ドルは60円。

 消費者物価指数を基準に貨幣価値を換算するサイトで試算すると、

昭和6年の貨幣価値は平成16年対比で2154倍余なので、非常に大雑把ではあるが

60円は現在の130万円弱ぐらいに相当することになるようである。

 

 ちなみに同書でグローブの「世界一の高給」と紹介されているる額が12万5千ドル。

(境屋旅館1参照)

 同様に上記で試算してみると5億4千万円弱となった。