島崎藤村は、仙台駅東口、名掛丁の「三浦屋」に下宿するまで、
仙台在住の10か月の間に何回か住居を移している。
明治29年9月4日 駅前旅館「針久」に投宿
〃12日 「針久」から「池雪庵」に転居
10月1日 「池雪庵」から「田代家」に転居
12月2日 「田代家」から「三浦屋」に転居
このうち、池雪庵と田代家が支倉通沿いにあった。
※転居の日付は下記によったが、他の日とする資料もあるようである。
・横浜山手病院について30 閑話編:布施家と星家(4)
http://igakukai.marianna-u.ac.jp/idaishi/www/443/44-3-09Kazuhide%20Uchida.pdf
・東京紅団さん
http://www.tokyo-kurenaidan.com/ から「島崎藤村の仙台を歩く」
明治29年9月、藤村は仙台駅前の旅館「針久」から、東北学院の同僚、
図画教師の布施淡(ふせあわし)の借家である支倉通5番地に転居、
布施と同居する。
布施の画号が池雪であり、ここが池雪庵(堂)であるという。
(島崎藤村の仙台時代)
「学院の同僚で図画の教師をしてゐた布施淡君はわたしの旅の身に
同情を寄せられて、古い屋敷町の方にあった同君の住居の一室を
わたしに貸してくれた。」
(仙台雑詩 島崎藤村 ※下記「若き日の藤村」から抜粋)
・若き日の藤村 − 仙台時代を中心に 藤一也(本の森)
・島崎藤村の仙台時代 − 「若菜集」をめぐって 〃 (万葉堂出版)
・布施家と星家
・島崎藤村の仙台を歩く
「島崎藤村の仙台時代」によれば、場所は北四番丁と支倉通の角(西側)
だったという。
現在、北四番丁と支倉通の交差点の西側角は商業テナントの入居するビル
になっている。
もっとも北四番丁はその後作並・山形方面への幹線国道として整備され、
市電開通に伴う拡幅も行われているようなので、当時の支倉通との接点は
道路の中と言った方が正確なのかもしれない。
北四番丁通を挟む向かいは東北大学病院になる。
大町西公園駅から西公園沿いに、グーグルマップのルート計算で1.5km
明治29年10月、藤村は布施とともに、池雪庵を出て支倉町の田代家に間借り
することになる。
前掲「布施家と星家」では、藤村の下宿により支倉通の借家が手狭になったこと
によるものではないかとしている。
◆まだあげ初めし前髪の・・・で有名な「初恋」の詩はここ田代家で
書かれたという。(若き日の藤村)
しかし、10月末には母が東京でコレラのため死去、葬儀と埋葬のため故郷の
木曽に赴く。
帰仙後、藤村はほどなく名掛丁の三浦屋に移ることになる。
田代家跡は現在個人の住宅となっているので、ここでは場所はあえて
詳らかにしないが、池雪庵からほど近い閑静な住宅街の一角である。
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