「仙台あちらこちら」(佐々久、宝文堂)が描く、昭和初期の仙台市。
県庁前、元寺小路は低地なのでよく水のでた通りであり大雨のときは床下浸水をした。仙台の下水工事が進んで地下水の下ったのは昭和7年頃である。それまで仙台の町は雨が降るとぬかるみで高い足駄が必要であり、道は「あんころ道」で 泥の深さ10㎝に及ぶところもあった。
荷馬車はわだちを作り、自動車は泥をとばし、はねた泥でガラス戸をまっ黒にしていた。 (仙台あちらこちら)
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今では想像しがたい光景であるが、昭和7年は1932年。
明治32年(1899年)の工事着工以来、仙台の都市排水が改善されるまで30年以上を要したことになる。
「杜の都れんが下水洞窟」は、詩人・画家の尾形亀之助の実家があった木町末無11番地とほとんど相接する場所にある。(「仙台懐古地図」アプリ所収の大正元年版仙台市全図)
大正6年8月
最新版仙臺市全圖
北の都社
定禅寺通りから西公園方向。SLが展示されている右脇にレンガ下水道の見学施設がある。
「ケヤキ並木のグリーンベルトが切れた辺りに広大な尾形家の門があったという」
宮城文学夜話 河北新報社編集局
靴底に泥を吸わせ、ぬれた靴下のはき心ちわるく、もう燈のともった街に役所を退けて、私は消え残る夕焼けの山の頂に眼をすえて歩いてゐるのだ。 「浅冬」 尾形亀之助
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この頃(昭和15年前後)の亀之助は、生家の経済的困窮が進む中で仙台市役所に税務課の臨時雇員として勤め、木町末無11番地内にあった生家の持家24号に住んでいた(秋元潔 「尾形亀之助全集」尾形亀之助略年譜)。
昭和17年9月には本宅敷地の一部売却に伴う24号住宅の明渡しにより、支倉町の賄い付き下宿屋に移る。12月に国分町の路傍で体調不良となり、本宅邸内の空家になっていた持ち家に運ばれるが、翌日夕方に誰にも看取られることなく死を迎える。
<消え残る夕焼け>の中で靴底にしみてくる泥・・・時期的には前掲「仙台あちらこちら」で「下水工事が進んで地下水が下った」といわれる昭和7年から、さらに7、8年経たあたりになると思われる。
天候条件と場所によって、なお排水の不全が残っていたことを物語るものだろうか。(あるいは悲劇的な終焉に凝縮していく亀之助の宿命の影を暗示する喩として、そこに明滅する信号を受け取るべきなのか。)
尾形家が大河原町から仙台・木町末無に転居したのは明治42年(1909年)、亀之助9才のときー前掲年譜ーであり、その時点では煉瓦下水道はすでに竣工・供用されていたことになる。
尾形家の仙台転居から110年近くを経た現在、付近を歩いてみても、敷地3,800坪余「尾花(ススキ)お化けの尾形屋敷」と呼ばれたという尾形邸と亀之助の往時を偲ばせるものは、何も見つけることができない。
西公園通りを挟んだ立町の一角に、「木町末無町内会」の掲示板が当時の町名をとどめるのみで、煉瓦下水道だけが現在も稼働を続けている。
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