宮城野原1


 

 

 

 「 いにしえの宮城野は、遠く海まで打ち続く大原野で、みちのくの広漠とした

  風景を思い描く都人の歌枕の地となっていました。

 

      歌人は群生するハギの花の色、野原を吹き渡る陸奥の風を思って歌を詠みました。」

 

(JR仙石線宮城野原駅の案内板)

 

宮城野の場所と地名の由来

 

 

佐々木久 「仙台あちらこちら」の描く大正期の宮城野の風景 

                          

 

 

〇 大正9年仙台の人口は11万8千であった。榴岡の桜はこの頃名実ともに

 日本一の「うすべにひがん桜」で花見は賑わった。

 

 

〇 榴岡の西の登り口に「宮城野原lここより三丁」という石が立っている。

宮城野原の西端は今の電鉄宮城野駅の所であったろう。

ここから東にはポプラに囲まれた一軒屋があっただけで大銀杏の梢が

林の上にみえていた。

 

 

〇 「宮城野を大根うえてへらしけり※1」といった風に来たと西から

 大根畠がおしよせ菜の花の頃は美しかった。

 

 

〇 電車開通※2の頃から大根畠は段々と西の方から住宅化していった。

 

 

※1 江戸時代の俳人遠藤曰人の句。榴岡公園に句碑がある。(榴岡公園1)。

※2 現在の仙石線の前身である宮城電鉄が仙台・西塩釜間で営業を開始したのは1925(大正14)年。 

 

 

 

宮城野の範囲に関して、菊池勝之助「仙台地名考」は、以下のように述べている

 

 

 

 

〇 いま宮城野又は宮城野原と呼んでいるのは、

 榴が岡の東、木の下の北に続く十町に六町ほどの平原で、

 

  元の練兵場すなわち現在の各種運動競技場と国立仙台病院並に

 仙台中央卸売市場などのある場所をさしているが、

 

  古の宮城野とは遠く海岸地帯まで打ち続いた

 広漠たる原野であったらしい。

 

  かの「東鑑」に見る源頼朝が奥州征伐に向かった

 文治年間頃(1185-89)の国分原は大体この原を指したものと見られている。

 

 

〇 それが時代の推移につれ、畠となり田となり、また、人の住む所とて

 次第に草原は減り、地域は狭められて僅かに一角の宮城野原となったのである。

 

 

 

 

 

 

 

また、仙台市史では

 

 

 

〇 木下白山神社(若林区木ノ下三丁目)の北方に広がる野原が

 宮城野と呼ばれる所である。

 

  古くは、西は仙台城下、北は高松(青葉区高松)辺り、

 東は海辺まですべて宮城野だったというが、

 

  江戸時代には田畑の開墾や城下町の拡大によって、

 「生巣原(いけすはら)とも称されたこの一帯がわずかに

 野原の面影をとどめていた。

 

  この地に咲く萩が古来「宮城野の萩」として

 都にまでその名が知られたものであった。

                      (仙台市史 通史編5-近世3)

 

 

 

 

 

仙台東ロータリークラブ 「詩歌の宿 心の宿 宮城野」では・・・

 

 

 

〇宮城野の範囲については諸説があるが

江戸中期、仙台藩の「残月台本荒萩」には、

「榴岡の東に広き野あり、これを宮城野の原という。」とあり、

さらに「東は海辺まで」とある。

 

この広大な地に多くの野草に交じって萩が茂っていた。

 

 

  ※現在の住居表示上の「宮城野」

 

 

 

 

 

 

 

 

 宮城の地名の由来について、仙台市民図書館編「要説宮城の郷土史(続)」は、

続日本紀、類聚国史、和名類聚抄の中から、

すでに「宮城郡」の郡名が7~8世紀には使われていたことを示す記述を引用し、

以下のように解説している。

 

  

 

この宮城の名称の由緒については諸説があり、定説はありません。

「都道府県と国名の期限」(吉崎正松)は、次のように記しています。

 

 

『 宮城(美也木(和名抄の訓) 

 

 県名は、古代から由緒ある宮城郡の名を取ったもので

「続日本紀」の天平神護2年(766年)の記事を初見とする。

 

 宮城の名称について新井白石は「松島紀」に、

 宮城の名は、けだし神聖の域の故として、

神の座す所、塩釜神社の鎮座する聖地と解したようであるが、

 

小林清治は、これは文字に拘泥した考えであるとして排し、

宮城は、屯倉から来た名称であるとする。

 

屯倉とは大化改新以前の大和朝廷の直轄地で、租稲の収納倉庫とその管理者のいたところで、

このミヤケの名称がミヤギの名となり、

好字〔よきな〕を用いて宮城と書かれたものであろうという。

 

  「和名抄」に、宮城郡宮城郷がある。

高橋富雄は、

大和朝廷の勢力がここに及んでいたことは認めるが、屯倉があったかどうかは疑問である。

 宮城の名は字の通り、宮なる城のあった所の意で、

宮は神の宮ではなく大王の宮であり、多賀城である、とされる。

 

 当時多賀城は大和朝廷の対蝦夷政策の第一線基地で、

国府と鎮守府とを兼ねていたことを重視されるのである。』

 

  

  また、JR仙石線宮城野原駅の案内板には、冒頭の記載(再掲)に合わせ、

 宮城野の地名の由来について説明がある。

 

  全文は

  

 

 いにしえの宮城野は、遠く海までうち続く大原野で、

みちのくの広漠とした風景を思い描く都人の歌枕の地となっていました。

歌人は群生するハギの花の色、野原を吹き渡る陸奥の風を思って歌を詠みました。

 

 「宮城のハギ」は現在、宮城県の県花として親しまれています。

また宮城野の一角榴ヶ岡東側に「宮城野」という地名が残されています。

 

「宮城野」の「宮」は、神社とか官府のことをいい、

「城」はこれらが所在する地域を意味します。

 

 多賀城国府が開かれた時代、かつての郡内には塩竃神社や、

また、現在の宮城野にあたる地域には、陸奥国分寺や国分尼寺が建立されました。

 

そうした神聖な土地であったことから

「宮城」という名前がつけられたものと考えられています 。

 

 

島崎藤村の見た宮城野

  

 

 1896年(明治29年)9月、仙台に東北学院教諭として赴任した若き島崎藤村は、

赴任後間もない9月19日に松島を訪れている。

「松島だより」はその紀行記。第二詩集「一葉舟」に収録されている 

 

 

 

中國の山は立てり。東北の山は横たはれり。

 

 紫苑(しおん)の花 萩の花 女郎花(おみなえし)もしくは秋草野花をもて

かざりとなせる宮城野の一望千里雲烟(うんえん)の間に限り無きが如きは、

 

獨り東北の地勢にして中國に見るべからざるの曠野(こうや)なり。

 

 この地勢に作られこの原野にさそはれて、吾國第一勝の松島は成れり。

                                                                              (松島だより)

  

 

 

 

 「松島だより」冒頭には

 

「仙台を発し塩釜に向かひしころには、東天ほのかに白うして・・・

汽車の窓より鶏鳴を聞きて・・・」とあることから、

 

当日の松島行きで藤村が仙台を出発したのは、夜がようやく白み始め、

まだ事物の色や輪郭も定かにならない時分だったと思われる。

  

 今年(平成29年)9月19日の仙台の日の出は5時21分(国立天文台「各地のこよみ」)。

 

   仙台駅は明治20年に設置され、そのときに上野-塩釜間が開通したが、

9年後の明治29年当時には、すでにこの払暁の時間帯にも

列車が運行されていたことになる。

 

 

 

 

 

 

 また、当時の鉄道路線からは、現在の東北本線を北上したと想定され、

直接宮城野をまじかにみるコースではなかったと思われる。

 

※仙石線(の前身の宮城電鉄)はまだなく、

藤村が乗車したのは現在の東北本線の仙台-(初代)塩釜駅間か。

初代)塩釜駅は塩釜市海岸通15にあったという。

 

 

 

 

 

 

 藤一也氏は、「島崎藤村の仙台時代」で、

「この松島紀行の前に、藤村は既に宮城野を歩いていたと思われる」と述べている。

 

  

 島崎藤村の仙台赴任は明治29年9月4日。

 

 最初に投宿した仙台駅前の旅館針久から支倉町池雪庵に転居し、

東北学院の同僚であり親友となった布施淡と同居したのが9月12日とされている(http://igakukai.marianna-u.ac.jp/idaishi/www/443/44-3-09Kazuhide%20Uchida.pdf)。

 

 

 

 

 毎年9月中旬には、萩の名所である仙台市野草園で萩の花が見ごろとなり、

萩まつりが開催される。

 

 

藤村が9月4日以降、松島紀行の前に宮城野を逍遥したとすれば、

ちょうど野に萩の花が咲き乱れる時期である。

明治29年9月の暦では土曜日曜が5・6日、12・13日、19・20日であるが、

平日の空き時間での宮城野散策も考えられる)

 

 

 

 

 それが「紫苑の花 萩の花 女郎花もしくは

秋草野花をもてかざりとなせる宮城野の

一望千里雲烟の間に限り無き・・・」

の叙述につながったのだろうか。


シオン(紫苑)

 

〇花言葉:君の事を忘れない、遠方にある人を思う、喜びをください、思い出、追憶、ご機嫌よう、どこまでも清く

〇誕生花:9月9日 9月28日 10月2日 10月7日 10月16日 

〇原産地:日本、朝鮮半島、中国、シベリア

〇生育地:山地のやや湿った所

〇別名:オニノシコグサ(鬼の醜草)、ジュウゴヤソウ(十五夜草)草

〇丈:50cm~200cm

〇開花期:9月~10月

 


萩(ハギ)

 

〇花言葉:思案、思い、柔軟な精神

〇誕生花:9月24日

〇原産地:日本

〇草丈:1m~2m

〇 主な開花期:7月~10月


オミナエシ(女郎花)

 

〇花言葉:約束を守る、親切、美人、はかない恋、永久、忍耐、あの人が気がかり

〇誕生花:8月16日 9月5日

〇原産地:日本

〇生育地:日当たりの良い草地など

〇別名:オモイグサ(思い草)、アワバナ(粟花)、チメグサ、ハイショウ(敗醤)

〇草丈:20cm~100cm

〇開花期:7月~10月

 


ダイコン(大根)

〇花言葉:潔白、適応力

〇誕生花:3月30日

〇原産地:地中海沿岸~中央アジア

〇生育地:田畑

〇別名:スズシロ(清白)、オオネ(大根)

〇草丈:50cm~100cm

〇開花期:4月~5月

 


宮城野と潮の音

 

島崎藤村が仙台に滞在したのは明治29年9月4日から

翌明治30年7月1日までの10ケ月たらずだった。

 

 その短い滞在期間においても、藤村は「草枕」で仙台(宮城野)の冬、

「潮音」で春を歌い、

「木曽谿日記」で秋の抒情を記していて

仙台で迎えた折々の季節の情感

青年期の藤村の感性に強い印象を与えたことをうかがわせる。

 

 「潮音(若菜集)」は、うららかな春の日の潮の音を題材にしているが、

藤村は後に仙台時代を回想して、投宿していた三浦屋まで実際に

遠く荒浜の方から海の鳴る音がよく聞こえてきたこと、若菜集の旅情の詩は

それを聞きながら書いたことを述べている(『若菜集』時代/市井にありて)

 

 

 

    荒浜海岸※から仙台駅までは、直線距離で10キロ程度。

今では想像しがたいものがあるが、当時は都市的な騒音や遮る構造物も稀で、

気象条件によっては寄せ返す波の音が

宮城野の原を吹き渡る風に乗って、

仙台駅周辺にまで達していたのかもしれない。

 

 そうだとすれば、王朝の歌人もまた遠く潮騒を聞きながら

宮城野を行ったことになる。

 

 

 

 

※ 荒浜地区は、東日本大震災以前は漁港や海水浴場があり、

 人口2,700人を超える集落だったが、

 大震災の津波により建物は全て流失し、多くの犠牲者が生じた。

 

  現在、被災した荒浜小学校が津波の記憶を後世に伝える震災遺構として

 一般に公開されている。

  また、海岸近くには荒浜を襲った津波とほぼ同じ高さ9mの慰霊碑が建ち、

 犠牲者192名の名前が刻まれている。

 

     

     

 

 

 

   JR仙台駅東口にあった三浦屋の跡は、現在は藤村広場として整備され、

草枕と潮音の詩句を刻む碑がそれぞれ設置されている。

 島崎藤村1  島崎藤村2

 

 

 

 

 

 

※島崎藤村に関する部分は、藤一也「若き日の藤村」を参考にした。