宮城野原2


萩の色は移りにけりな・・・

 

 

 (宮城野は)近代の初めまではなお満野はぎ、すすきの百草が繚乱と茂り合い、秋の

趣はさながら 咲きまじる野辺の秋草咲き乱れ尾花が袖を萩の花摺り という古歌そのままの実際であったらしい。

 それが安永(1772-1781)の頃以来著しくその影が薄くなり、天保(1831-1745)の頃は

全野もはや萩の絶滅に瀕していたのである。

 

杉村森之助「宮城野の萩について」

  

 

杉村書では、宮城野の植生と景観の変化について、

 

「野守がありながら宮城野の萩ははやく衰退したその原因は何か。

懇拓よりは野火が主因。また名産毛筆の時期として年々早く茎を刈り取った

ことも深き関係をもつ」

 

している。

 

   今日的な客観性は定かでないが、宮城野の変貌の一つの手がかりとして、

非常に雑駁ではあるがその大まかな概要をまとめると

  以下のようである(着色の枠内)。

 

 

平安朝初期まで

 

 

 

〇 今残る宮城野の詩歌などを見ると、萩や七草のみが乱れ咲いていた

 懐かしい都雅風流の地であったように聞こえるが・・・

 その中に「木ノ下杜」などの名所もあり

 

 老樹高木が枝を伸ばし近代まで残っていた事実を考えると、

 上代※には大部分が鬱蒼とし樹木で蔽われていたものと想像される。

 

  ※上代:太古。日本史や日本文学史の時代区分としては奈良時代前後を指す(広辞苑)

 

     

 

〇 上記のような原相がいつ頃まで続いていたかは分明ではないが、もともと

 萩はごく陽性の灌木で深い林の中では繁盛しないと考えられるから、

 

  名所として萩が世間の評判になった頃、少なくとも平安朝初期※には

 樹林もおおかた失われて草野となり、疎らな林が点在するところ、

 

 多くは低木が茂り、ところどころ道ばたなどの草野には、

 特に野萩、すすき、女郎花などの秋草が雑然と乱れ咲いて、自然の趣き※

 を添えていたと思われる。

 

    ※平安朝初期:平安京遷都は794年

                            

   

 「宮城野の萩について」

 

 

 

 

 上代から平安朝初期にかけての宮城野の変化(樹林から草野へ)の原因に

ついて、杉村書では明示的な言及はないが、 

 

多賀城への国府・鎮守府の設置(724)や陸奥国分寺の建立(741~762の間に建立)の

史実をひいて、当時から宮城野やその周囲は相当に開拓・耕作されていたと述べる。

 

 「戸口の増殖と相まって土地の懇拓も行はれていたから、

萩の宮城野はその名の喧伝されるのと反対に絶えず狭められていたことは、

察するに難くない」 (同書)

 

 

 一般的に植生の遷移は「草本植物」→「低木林」→「陽樹林※」→「隠樹林※」を経て

極相(安定)に至るとされる。

  ※陽樹:日照が十分な場所で育つ樹種。アカマツ、クロマツ、シラカバ、コナラなど

   隠樹:日照量の少ない環境でも育つ樹種。ブナ、シイ、カシ、ヒバなど

 

 平安朝初期までの植生の変化が、開墾など人為的な原因、地形や気候、

数百年ごとに仙台平野を襲ったと言われる巨大津波の影響などで

この逆を辿ったという趣旨なのか、

 

もともと混交して分布していた原野と低木と樹林の構成割合の変化

という趣旨を含むものなのか、ここでは明らかではない。

 

  

 

 ※自然の趣:郷土史家高倉淳氏は、「宮城野の木萩」の中で

   「宮城野を通る多賀城への東山道は前記の断層(長町利府断層)に沿っており、

  宮城野より高い断層斜面の中ほどを通っているので、群生する木萩の眺めは

  また格別ではなかったかと想像される」

  と述べている。

 

 

 


平安朝(中期以降)

    

古今集(905成立)

 

   〇みさぶらひみかさと申せ宮城野の木の下露は雨にまされり

                   巻20東歌 読み人知らず 

 

     もし、お供の方よ、ご主人様にお傘をどうぞと申し上げてください。

      この宮城野の木ノ下の露は、 雨にもまさるほど濡れますから。

     

     木ノ下が地名「木ノ下」の意味も含むと考えれば、少なくてもその付近では

    古木が鬱蒼と枝を拡げていたことをうかがわせる一首である。

 

(映画「トトロ」でのワンシーン。雨のバス停、サツキから傘を借りたトトロ。

背後の木から落ちるしずくが傘を打つ音にニヤリ、その場でジャンプする。

着地とともに大地は揺れ、枝に溜まったしずくが滝のように激しく傘へ。

トトロ大よろこび!・・・を、ちょっと連想してしまう・・・)

 

 

    みやぎ野のもとあらのこ萩つゆを重み風を待つごと君をこそ待て

 

・宮城野の根元のまばらな萩は、枝先の葉が重いので吹いて散らしてくれる風を待っています。

私も同じように、あなたが来て下さるのをお待ちしています。

      巻14 恋歌 詠み人知らず

 

 

  

 

源氏物語(平安中期、11世紀初めに成立) 

 

 宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ

 

・宮中を吹き渡り露の玉を結ばせる風の音を聞くにつけ、

(小萩のように可憐で愛らしい)我が子の身が案じられる

   桐壺の巻

 

前出歌「もとあらのこはぎ・・・」を本歌とした作中歌。

桐壺帝が宮城野を宮中に、小萩を我が子の若宮(光源氏)にたとえ、

子を案ずる思いを和歌に託す。

 

  

 

 

枕草子(平安中期、10世紀末から11世紀初めに成立)

 

  宮城野が本朝の<野>の宮中席次ベスト十二選に・・・

 

 嵯峨野 ・印南野(いなみの) ・交野(かたの) ・狛野(こまの)

 ・飛火野(とぶひの) ・しめし野 ・春日野 ・うけ野 

 宮城野 ・粟津野(あわづの) ・小野 ・紫野

 

 

 

 

   橘為仲

   

 国府役人橘為仲(1014?-1085)が任期を終えての帰途、土産に、

  都につくころ花盛りとなるように宮城野の萩を掘り取り、

  十二の長櫃(ながびつ)に納め持ち帰ったところ、京の都が見物の人々で

  大賑わいになった。

 

   着京の日に京の貴賤が白川辺から二条大路まで車を立てて見物に参じ、

  帝もひそかに行幸されるほどの人気であったことが鴨長明の「無明抄」に

  収録されているという(「仙台事物起源考」再編復刻版)。

 

   

   橘為仲の陸奥守赴任は1075年、帰郷は1081年。上の逸話もその際のものか。

 

 

 

 

  千載和歌集(1187成立)

 

〇さまざまに心ぞとまる宮城野の花のいろいろ虫のこえごえ

 源俊頼(1055-1129) 

 

 思い誘われる宮城野の秋の詩情。

 

「従来の景物の枠を超え、茫々たる宮城野に目を向け哀感誘う秋の野の広がりの

ある風景に想いを馳せる。

 一幅の絵を見るような印象に残る歌は、おびただしい数の宮城野歌の中でも

絶唱とされる。」

 

   「宮城野の鈴虫は『ななゆすり』といわれリーン・リーンと

七回続けて鳴くのを特徴としている」

 (詩歌の宿 心の宿 宮城野) 

  

 


鎌倉、南北朝時代

 

 

 

〇 平安朝中期から鎌倉時代になると、宮城野は萩ばかりではなく、

 原野としても 景勝地に数えられていた。

   

  中世※頃の古歌に鹿を詠んだものが多いのは、当時はまだ原上の

 あちこちに密生した樹木もあって、萩もともに繁り合い、生息地と

 なっていたことを物語る ものであろう。 

  ※一般に鎌倉幕府成立から16世紀末の室町幕府滅亡までを指す。   

  

 

 

〇 この時期、宮城野の秋景色に鶉(うずら)を取り入れた歌が

 あることに留意すべきである。

  これは次第に草木の密生が薄らぎ萱原に変わりつつあったことを

 表わすもの。

 一方で枝垂り咲くような木萩はだんだんと衰滅していった。

                          

                        「宮城野の萩について」

 

 

 

  

 現在では鎌倉政権の実質的成立を1185年年頃と考える説が有力と

されているが、

それによれば文治5年(1189年)の源頼朝による奥州進攻は、

鎌倉時代初期に画されることになる。

 

   迎え撃つ平泉軍は国分原鞭楯(榴岡公園付近に比定されている)を

  藤原泰衡の本陣とし、阿津賀志山(厚樫山、現福島県伊達郡国見町付近)

  の防塁で迎撃した。

   

 阿津賀志山防衛戦の敗北後、泰衡は鞭楯を捨てて平泉方面に脱出する。

 

 以後は散発的な抵抗だけで大規模な合戦はなかったというが、

陸奥国分寺や国分尼寺の堂宇は戦火で焼失し、以後長く荒廃が続いたという。

(伊達家の祖先もこの平泉攻めに従軍し、福島県伊達郡に領地を得て

伊達姓を名乗ったといわれる)

 

 

 

 

西行の東行

 

 

 西行(1118~1190)もまた、宮城野に心誘われ、その景物と心象を

詠んだ歌人だった。

 

 

 

〇萩が枝の露ためず吹く秋風にをじか(牡鹿)鳴くなり宮城野の原

山家集(成立年未詳) 秋歌

 

 

〇あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風たちぬ宮城野の里

新古今和歌集(1205成立)

 

 

 

 

 西行は奥州平泉に赴いた際に宮城野に立ち寄り、

萩を笈(おい。行脚僧などが仏具や衣服などを背に負う箱)に忍ばせて

京に持ち帰り、

親交のあった慈鎮和尚(『愚管抄』を記した慈円和尚)に贈ったとされ、

萩は京都・青蓮院の相阿弥の池の庭に現存すると伝えられる。

  

青蓮院ホームページ

http://www.shorenin.com/noukotsu/garden.html

 

 

 

 

 

 

 

  ※ 1186年、西行は69歳の時に東大寺大仏殿再興の(砂金の)勧進の

   ため、40年ぶりに藤原氏の拠点・平泉氏に赴く。

    

 

    西行(佐藤義清)は平泉藤原氏の一族で、

   同じ北面の武士だった平清盛とも交流があったという。

 

 

    道中の難所、小夜の中山の峠(静岡県掛川市)では

    生涯の名作ともいえる

      年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 

    を詠んでいる。

 

  

  その後鎌倉で源頼朝と会談するなどの経過を経て平泉に到着。

  藤原秀衡に会い勧進の目的を果たし帰京するが、3年後の1189年に

 藤原氏は源氏の進攻を受け滅亡。

    西行も翌1190年「如月のころ」に生涯を終える。

 

    70歳近い西行にとって、「旅に病んで」の死を覚悟していたかも

 しれない遠く奥州への道行きは、

 世の栄枯盛衰と自身を取り巻く人間模様が交錯するもとなった。

 

    平泉への到着は旧暦の10月中旬(今の12月初め)頃とされており、

   宮城野も晩秋から初冬の中にあったと思われる。

 

  一段小高い長町利府断層線の斜面に沿っていたという東山道。

 西行は冬枯れの宮城野、遠い潮騒に何を思ったのか。

    

  

    

 

   都の苞(つと)

 

   宮城野の萩の名に立つもとあらの里はいつより荒れはじめけん」    

 

(宮城野の萩で有名な本荒の里は、いつからその名のように荒れ始めたのだろうか)

    

 

  筑紫の修行僧宗久が、南北朝時代の1350年頃に奥州を訪れた際の

 紀行文「都の苞(つと)」に収録されている自作句。

 

 

    

 「詩歌の里こころの里 宮城野」に紹介されている「都の苞」の原文では、

 

 

 「宮城野の木の下露もまことに笠をとりあへぬほどなり。

 

 本荒の里※といふ所に色など外には異なる萩のありしを一枝折りて

 「・・・(冒頭の歌)・・・」と思ひつづり侍りし。

 

   このところは昔は人住みけるを、今はさながら野ら藪になりて

 草堂一宇(=草ぶきの小屋一つ=)より外は見えず」     

 

 

 

 頼朝の平泉進攻から150年を経てなお、一帯が「野ら藪」となるような

荒廃が続いていたことになる。

 一方で「色など他とは異なる萩のありし」とも記されているが、今では

その萩について知るすべもない。

 

 

 ※仙台市史によれば

  この本荒の里の場所について

  『「仙台鹿の子」「仙台萩」「残月台本荒萩」は仙台城下の本荒町としているが、

  「奥羽観蹟聞老志」は国分尼寺(若林区白萩)の北方と推定し

  「封内名蹟志」や「嚢塵埃捨録」「奥州名所図会」もその見解を踏襲している。』

(通史編5-近世3)

 

  

 

 

 ・仙台鹿の子(せんだいかのこ): 1695年(元禄8年)の序文を持つ仙台城下の民間地誌

 

 ・仙台萩(せんだいはぎ): 民間の地誌。享保年間(1716-1736)の作とみられる

 

 ・残月台本荒萩(ざんげつだいもとのあらはぎ): 民間の地誌。安永年間(1772-1781)の作とみられる

 

 ・奥羽観蹟聞老志(おううかんせきもんろうし): 四代綱村の代の仙台藩編さん地誌。1719完成

 

 ・封内名蹟志(ほうないめいせきし): 五代吉村の代の仙台藩編さん地誌。1741年(寛保元年)完成

 

 ・嚢塵埃捨録(のうじんあいしゃろく): 民間の地誌。1811(文化8年)成立 

 

 ・奥州名所図会(おうしゅうめいしょずえ) : 江戸時代後期の作。未完成

 

現在の住居表示での仙台市若林区木ノ下


江戸時代

  

 

〇 時は降り、伊達時代になると、寛文(1661-1673)の頃できた「松島眺望集」の

 句々に見ても、既にそこには鹿の跡も絶えていたことはわかるが、

 

 寶永(1704-1711)正徳(1711-1716)の頃に出来た「奥羽観跡聞老誌」によると、

 もはや「平原渺々草野芋々」云々という原相に変わり果てていたのだろう。

 

 

〇 宮城野が耕土に浸食される一面で野火が所生の萩を掃滅に導いたことは

 明らかである。

 

  木萩や樹林が次第に影をかくし草野を形成したのは、

 初め焼き畑により狭められ、後には時々の野火が最も大きな原因と

 なってきたのは疑いないと考えられる。

 

                         「宮城野の萩について」

 

 

 

 

 

 元禄2年(1689)5月に仙台を訪れた芭蕉は

 

「宮城野の萩茂りあひて秋の気色思ひやらるる」

「日影ももらさぬ松の林に入りてここを木ノ下と云ふとぞ」と記す。

 

 

 

 

 それが80年後の明和8年(1771)8月に宮城野を通った細井平州の

「おしまの苫屋」では、

 

「 あはの畑にくさぐさの菜もまじりおいて、いずこに萩の咲いたるらん。ほのあかう

 見ゆるところをむかしの原のあとという。

 ・・・萩もむらむらまじりてさいたれど、きのふみたる百に一つにもなし」

 

 

 

 

 

 同じ明和8年 (1771)に宮城野を通った米沢の儒者紀徳民は、

 

 「 左に出でれば、さまざまに心とまる宮城野の原なり。

  あはの畑にくさぐさの菜もまじりおいて、いずこに萩の咲いたるらん。

  ほのあかう見ゆるところをむかしの原のあとという。

 

   〇宮城野の本荒の小萩あれにけり ふりしことばの花のみにして 

 

 

と述べていて、この間の宮城野の変貌の大きさを思わせる。

 

    

 

 

 

 

 

〇 伊達家時代(寛永)に萩の名蹟を保護するために「野守」が置かれたが、

 春の野火の季節に関心を払った形跡はなく、その後も野火は絶えずあった。

 

(屋根をふくカヤの発生を促すために野焼きする慣習に起因する

 ものもあり、乾燥期の失火によるものも多かった)

 

  また野守の管轄区域外は次第に開拓されていったので、

 近世には宮城野は事実上、村里の中に位置するようになった。

 

 

〇 また伊達家時代には、仙台名産の萩筆の材料として、花が散った後の

 萩をみな根元から刈り取ったことも、萩の衰亡に少なからず影響し、

 助長する結果となった。

 

  萩は年々刈って生やした若梢にも相応に花を見せるし、

 かえって年々のしなやかな若梢の風刺の方が、

 一般に思い誤られている「糸はぎ」※とも思わせて、

 

 そのために宮城野の萩は高く枝重り咲く木萩だということに

 気づかずに過ぎたものかもしれない。

   

    ※糸はぎ:糸のように枝の細い萩(精選版 日本国語大辞典)

 

                       「宮城野の萩について」

 

 

 

 高倉淳「宮城野の木萩」では、

 

「奥州名所図会」作者の大場雄淵(1758~1829)が、源為中の萩の逸話の場面に

「今は広野に小松原生ひつつきて、名のみ残っているだけである」

 

と記していることが述べられている。

  

 

  

  

    


 

 

文中の和歌及びその解釈は、基本的に「詩歌の宿 心の宿 宮城野」による。

そのほか

 ・高倉淳「宮城野の木萩」

 ・再編復刻版「仙台事物起源考」

 ・高倉淳のホームページ

 等を引用も含め参照した。