宮城野のへらし方

 

 

「宮城野を大根うえてへらしけり」 遠藤日人

 

 榴岡公園内にある歴史民俗資料館の東側裏手の遊歩道には、地元の仙台東ロータリークラブが建てた銘板が並び、宮城野にちなんだ和歌や俳句などの作品が刻まれている。

 

 作者の遠藤曰人(えんどう・あつじん)は宝暦8年(1758)-天保7年(1836年)

 

 「遠藤曰人は、実名を定矩(さだのり)、清右衛門、伊豆之介と称した知行高105石余の仙台藩大番士。

 晴湖庵(せいこあん)、柚庵(ゆうあん)、浅茅庵(あさじあん)等多くの号を持ち、漢詩にも長じ、書、俳画、長刀をもよくした。

 

 屋敷は桃生(ものう)郡寺崎村給人(きゅうにん)町(宮城県桃生町)にあったが、もっぱら石巻(宮城県石巻市)に住みながら俳人として活躍した。

 

 また曰人は芭蕉やその門人の研究を志し、芭蕉の門人百余名の足跡を訪ねるため全国踏査を行っており、その成果は未完であるが、「蕉門諸生全伝(しょうもんしょせいぜんでん)」としてまとめられた」

                             仙台市史・通史編5 近代3

 

 

 文武両道、多方面で優れた才能を発揮した遠藤曰人の句風は、警句と諧謔と機知に富むと評され、また絵画では「ぼんぼこ祭り図」などの作品が知られる。

  

 


 

 「宮城野・・・」句の背景には、天明、天保の大飢饉をはじめ、遠藤日人が生きた時代の社会情勢があるといわれている。

 

天明の大飢饉 天明3、4年(1783・1784)

 

宝暦の飢饉、天保の飢饉とともに江戸三大飢饉の一つといわれる。

 

 遠藤日人の生まれる1758年の直前には、宝暦の飢饉(宝暦5・6年=1755・1756)があり、仙台藩でも胆沢(いさわ)・江差(えさし)など北部を中心に約2万人が餓死する。

 

 その後も明和2(1765)年の干害、安永3(1774)年や安永7(1778)年の冷害などによる不作が断続的に続いた。これにより、宝暦の飢饉の被害が十分に回復しない状態で天明の飢饉を迎えたことが、被害をさらに深刻化させる一因となった。

 

1783(天明3)年は、5月から9月初めまで悪天候が続き、浅間山の噴火による降灰の影響もあり水田の稲作は壊滅的な状態となる。

 

 財政難に苦しむ藩が、前年の全国的な米不作による米価高騰を背景に藩内での米の買上げを積極的に進め、さらには凶作時の備蓄米も含めて江戸表に積み出し、売却益の獲得を目指したことも、これに輪をかける結果となった。

 

 仙台城下での米の値段は、天明3年7月の一升50文が8月末に80文、9月末に108文、12月下旬に160文、翌天明4年3月下旬に220文、5月下旬には350文と激しく高騰。

 翌天明4年には疫病も流行。仙台藩が財政難打開のため藩札を乱発したことも流通を混乱させ、危機をさらに深刻にする。

 

 天明の大飢饉を通じて、仙台藩全体では約60万人前後の人口のうち15~20万人にのぼる死者を出したという。

 

 

 

天保の大飢饉

 

天保4、5年(1834‐1835年) 天保7、8年(1837‐1838年)

 1830年代は気候の寒冷な時期に当たっていたとされ、凶作が頻発し、全国的な飢饉に見舞われている。

 

天保4年、東北地方は移動性高気圧に覆われて低温少雨のうちに経過し、出羽地方や東北北部を中心に大凶作となる。8月には前年の不作の影響により仙台城下でも米価が高騰、領民は食糧不足に苦しむ。また出羽地方などから城下に多数の難民が流入するが、多くの人が落命する。

 

 続く天保6、7年(1835・1836年)は二年連続の凶作となり、種籾も残せないほどであった。

 涌谷伊達氏の家臣花井安列(やすつら)の日記に基づく分析では、天保6年の気温は平均より0.9度低くかったと推定されるという。8月の大洪水などの影響もあり、稲の作況指数※は推定27の大凶作となる。

 

※ 作況指数:その時代のその時代の平均収量を 100として示した指数。ここで示されている江戸時 代の作況指数がどのように推定されたのかは定かではない。

  こちらのリンク先 近藤純正氏 「気候変動と人々の暮らし」  

http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/kisho/kisho03.html  では、年貢米の変動を収穫高の変動と見なして小田原藩の減収状況を分析しているが、同様の手法によったものか。

 

天保7年はオホーツク海高気圧が強く、冷涼で長い梅雨となった。8月も雨が多く台風の接近や上陸が相次ぎ、推定作況指数は9と仙台藩にとって天保期で最悪の凶作となる。気温は平均より2.8度低かったという。

 

 石巻など東部の浜方一帯でひどい飢饉となり、仙台城下でも天保8年の春から夏にかけて流民や物乞いの遊民の行き倒れが急増し、また疫病流行により多数が落命する。

 

 天保7年4月20日、遠藤日人は79年の生涯を閉じる。 

 

 辞世の句として

 

 〇土金や 息は絶えても月日あり

 〇行きて逢はん 孔子 貫之 義之 芭蕉

 

 が伝えられ(鈴木省三「仙台市史」)、前者の歌碑が若林区新寺四丁目の松音寺に建立されている。

 後者の句は前掲「「ぼんぼこ祭り図」の画賛に、辞世の句として記されているのを見ることができる。

 

 

 

 また、天保の飢饉が頂点に達する中、大阪では庶民の窮状を無視し、大坂から大量の米を江戸に回送しようとする大阪町奉行などの幕政や、米の買い占めと幕府への売付けで巨利を得る豪商を指弾し、陽明学者で元大阪町奉行所与力の大塩平八郎が翌天保8年2月に挙兵する。

 

天保8年(1837年)も推定作況指数37と3年続けての凶作となる。江戸幕藩体制の瓦解まで30年。

 

                          ※以上は仙台市史によった

 


 




-宮城野を大根うえてへらしけり-


 

 結局、当時の不安を孕んだ食糧事情の中で、増産に向けられた庶民のエネルギーが宮城野の開墾を推進させる契機の一つとなっただろうことは想像できるが、それ以上にこの句の成立と飢饉との直接的な関係や、機知あふれる趣きの中に込められた句意に言及することは、浅学・門外漢の身には出来そうにない。

 

 歌枕の地・宮城野の変貌への慨嘆の歌とされているようであるが、風になびく広大な大根畑を前に、連綿とした歳月の流れと人の営み、過ぎ来し方への哀歓を包摂した静かな詠嘆の余韻が感じられる気がして、遠く心ひかれるものがある。