榴岡公園の南側遊歩道のほとりにある、背の低い茶色の石碑。
一面には
「歩兵第四連隊長 石原莞爾大佐の日記から
昭和九年三月二十五日日曜(晴) 梅二〇〇本植える」
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その裏面には
「石原莞爾氏は昭和八年 九月から二ヶ年間
この地に歩兵第四連 隊長として在任し
連隊諸兵の栄養源 又非常用として自ら 植えられた
この四連隊跡地が仙台 市民の公園として開放 されたことを祈念して この碑を建立する
昭和五十二年三月二十五日 石原莞爾将軍を偲ぶ会 建立会一同」
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の文字が刻まれている
石原莞爾 明治22年(1889)~昭和24年(1949)。
その評価は、未だに激しい毀誉褒貶の中にあるといっていい(※1)。
その軍事・政治思想と文明史観、行動の分析、戦前の東アジアと日本に与えた影響については、現在も多くの研究者によって論及がなされ、著述が刊行されている(※2)。
様々な断然異色のエピソードもまた枚挙にいとまがないほど流布されているが、それらについてここで触れることは遥かに手に余ることでもあり、歩兵第4連隊長時代についてのみ若干の紹介をさせていただく。
※1たとえば石原莞爾を語る際の枕詞として、
・満州事変で日本を戦争に引きずり込んだ誇大妄想狂。
・満州事変謀略の首謀者であり15年戦争の引き金を引いた張本人。
・戦略的思考にもとづいて日中戦争を止めようとした名将。
・対米開戦に反対し、攻勢終末点を超えた作戦の無謀を指摘、敗戦を見通した慧眼。
・現地軍による統帥無視と独断専行、下克上の悪弊を生んだ元凶。
・陸軍の怪物。 帝国陸軍の異端児。 昭和陸軍の鬼才。
・陸軍史上最大の天才戦略家。
などなど。
※2インターネット上で閲覧ができ、参考文献の紹介を含むものとしてたとえば
・田中梓「昭和陸軍の鬼才・石原莞爾について」
石原莞爾が第4連隊長として在任したのは、昭和8年8月から昭和10年8月までの2年間である。
満州事変後、石原は辞職願を提出するが認められず、昭和7年8月に大佐に任ぜられ、陸軍省兵器本部付で内地に帰還する。
このときの人事は関東軍首脳の総入れ替えとなった。
阿部博行「石原莞爾 生涯とその時代」では、出先と中央の不一致を避けるため、革新主義・王道主義を唱え中央の意志に従わない石原らを更迭し、官僚的で内地本位の指導に切り替えることを狙ったものとしている。
10月、石原は満州問題に関するリットン調査団報告書を受けたジュネーブでの国際連盟総会に、松岡洋祐全権の随員として派遣される。この総会で日本は国際連盟脱退を宣言。
翌昭和8年6月に日本に帰国し、8月の異動で第4連隊長となる。
石原は出身地(※3)東北の古い名門連隊に勤務できることを慶び、連隊将兵もまた令名高い石原の着任を喜んだ(前掲「昭和陸軍の鬼才・石原莞爾」)という。
※3山形県鶴岡市
◆第4連隊長時代の石原
石原は常に部下に対し、「兵は神様、将校は神主」と言っていて、神主が神様を殴ることはとんでもない、と体罰は厳禁だったという。
またこの間、訓練と兵営生活についてさまざまな改革を行っている。
◆教練で下士官・兵の戦術能力を向上させるため、「兵用戦術教程」を編さんした。
◆曹長・軍曹の中で優秀な者を選抜し、特別教育を行った。 若干名を「修養会」に組織し、軍事知識はもとより一般常識から農事知識の習得にまでおよび、品格の向上に努めた。
◆当時浴場は大隊に一カ所あるのみで、中隊ごとの順番制で時間も制限され、一番最後の中隊の初年兵が「しまい湯」に入るころはドロドロの状態だった。 石原は師団経理部長を説き、モーターによる浄化装置を導入し、(浴場を)日曜日は終日、その他は演習終了後の午後四時から消灯時間まで開放した。
◆「連隊新聞」を兵に発行させ、将校への批判を許し、営内に大きな壁新聞を張らせた。
◆演習の余暇に県当局・地方篤志家と連絡協力して農業講習を行った。 田畑ばかりでなく果樹・園芸・植林・農産加工・養蚕・農村自治など全般にわたり、営庭にはトマト・イチゴ・瓜・へちまなどが植えられた。
◆旧藩主伊達家から多くの梅苗をもらい、将校集会所とその付近一帯の斜面に、二〇〇本の梅を植えさせた。 毎年数石の収穫が上がり梅干しにされた。 ※一石は一〇〇升(一八〇リットル)
◆ウサギの飼育を奨励した。 畜産技師の派遣を求め、その頃珍しかったアンゴラ種などの優良種を求めるとともに、希望する兵に講習を受けさせた。 食肉だけでなく、寒地作戦での防寒材料を得るのが目的だったが、繁殖しすぎて兵舎にもウサギが進出することになったという。 除隊の時にウサギひとつがいを無料でもたせ、郷里での飼育をすすめた。
前掲「石原莞爾 生涯とその時代」から
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◆形式的な行事に堕した特命検閲のために連日連夜大騒ぎで準備していたのを、ありのままの連隊を見てもらうのが本当だと言って何の準備もさせなかった。
◆将校の思想調査の状況を問われたとき、「自分は部下将校を信頼しているので、そんなことは調べていない」と検閲使の陸軍大将(荒木貞夫か)に答えた。 (石原は後年の226事件で参謀本部作戦課長として対応に当たり、皇道派の動きを封じて事件を一挙に鎮圧、解決する手腕を発揮する。 陸軍省で皇道派重鎮の荒木と遭遇した石原は、「バカ!お前のようなバカ大将がいるからこんなとんでもない事態になるんだ!」と罵倒。あやうく乱闘になりかけたという。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E5%A4%AB)
◆中隊の編成を出身地の郡別編成に改めた。それは軍隊の悪弊である私的制裁の一掃と団結の強化をもたらした。
◆残飯が多いのをみて、専門の調理人を軍属として雇って食事の味をよくしたり、パン食をとりいれたりした。
◆兵が洗濯に時間をかけたりするのは無駄だと考え、師団経理部から洗濯機を導入させて、選択はまとめてするように改めた。
◆官給品の紛失を他からの盗難で埋め合わせる「員数合わせ」が横行していたが、これは泥棒を養成するものとして、師団と折衝して紛失の都度代品を支給するようにした。
◆演習の際に農作物を荒らさないように、突撃訓練はあぜ道を縦隊で行うよう将兵を指導した。
前掲「昭和陸軍の鬼才・石原莞爾について」から
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これらの一連の改革は訓練第一主義と兵営生活を明朗化することを眼目として行われたものといわれていて、石原の合理的で独創的な発想の一端を示しているといえるだろう。
同時に、独自の軍事思想や文明史観、満州事変の断行で名を馳せた彼の存在が、第二師団内のみならず陸軍中央でも瞠目(敬遠も)され、一目も二目も置かれていたことをうかがわせるものでもある。
宮城野原(練兵場)
連隊長時代は石原にとって最も健康のすぐれない時代だった。
2階の連隊長室に行くのに、動悸に苦しむことがあり、時には左手がしびれ、乗馬が困難なこともあった。(診察の結果、膀胱に新たに3、4個の乳頭腫の発生が確認された)
それにもかかわらず、石原は当時、
「私はできることなら一生連隊長で終わりたい。
私は兵とともにいることが最も楽しみだ。
兵と離れて軍人としての生きがいがない」
とまで語っていたという。
前掲「昭和陸軍の鬼才・石原莞爾について)
また、同様に後年
「軍人生活の中で連隊長といふ任務は一番楽しく、またやりがいのある生活だ。
旅団長や師団長では直接部下を持たないが連隊長は直接部下に接する事が出来る。
私は連隊長が一番楽しい生活だった」
と述懐していたといわれる。
(高木清寿「石原顧問巡廻記」其一 前掲「石原莞爾 生涯とその時代」から再引用)
昭和年代だけでも、歩兵第4連隊長には13人が在任している。
石原莞爾の逸話を英雄譚のように取り上げるのが本稿の趣旨ではないが、有志の人々により特に彼の顕彰碑が建立されているのは、やはりその連隊長としての言行に水際立つもの、周囲を強く感銘させるものがあったということなのだろう。
梅の木を植林した翌年、昭和10年8月に石原は参謀本部作戦課長として第4連隊を離れ、再び中央に転出する。
その後、東条英機ら陸軍主流派との対立が顕在化。日華事変拡大を図る政府や陸軍中央の情勢判断、軍政内容を厳しく指弾・痛罵したため、昭和16年3月に予備役に編入され陸軍を去った。
梅の木は今も榴岡公園内に49本が現存しているという(平成12年の資料)。
榴岡公園のシダレ桜は西公園のソメイヨシノと並び、仙台の桜の名所として
4月の花見の時期には多くの市民で賑わう。
それより一足早く、公園の南側斜面を中心に点在する梅は3月の半ば過ぎに
楚々とした花を冬の厳しさの残る早春の陽の中に静かに咲かせる。
サクラの華やかさとは対照的な、どこか孤高を感じさせる佇まいである。
(Open Street Mapで作成)
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