ベーブ・ルースと明日のジョーと仙台


ベーブ・ルースとボクシング

 

 🥊ルースはもともと少年時代は手のつけられない悪童で、

不良ぶりにサジを投げた両親によって全寮制の矯正学校兼孤児院に預けられ、

ベースボールと運命の出会いをすることになる。

(この辺、矢吹丈とボクシングをホーフツとさせるものがあるが、それは置いといて・・・)。

 

 

 ルースはボクシングが好きだった。

  押しも押されもしない大リーガーになってからも、プロ・ボクサーに憧れているとかボクシングをやりたいとか言っていたらしい。

 

 

  1925年、ルースは不摂生と奔放な生活による成績不振、ケガ、病気etc.… 野球人生で最初の、そして最大の危機を迎える。・・・まさに満身創痍の中、マジソン・アベニュー・ジムに入門して心身の鍛錬に取り組むことになる。

 

 

 ジムのトレーナーは元ボクシングチャンピオン。厳しい食事管理と先進的な科学的トレーニングを編み出した人で、ボクシング・トレーニングもメニューに。スパーリングも実際にやっていたらしい。

 

 

 ルースは、マジソン・アベニュー・ジムの厳しいトレーニングに打ち込む。

 

   (さらばアドリア海の自由と放埓の日々よ… )

 

その 結果、翌1926年には打率.372、47本塁打146打点と劇的復活を果たす。

さらにその翌年には長らく世界記録となった60本塁打を放つ。打率.356打点164。

  

それ以後もボクシング・トレーニングを積極的に取り入れていたといわれる。


明日のジョーと仙台

 

 🥊ところで・・・「ガン・マン」創刊号は、世紀の3大試合特集で、草薙球場での日米野球とともに、プロボクシング世界フェザー級タイトルマッチ、デビー・ムーア対高山一夫戦を取り上げている。

  この試合で高山が戦った王者デビー・ムーアは、ある部分がマンガ「明日のジョー」の力石徹のモデルになったとされる人物である。

 

 ムーアはこの昭和36(1961)年の高山との防衛戦に判定勝ちし、4度目の防衛に成功。

 次の防衛戦にも勝利するが、1963年3月、6度目の防衛戦でシュガー・ラモスにTKOで敗れ王座陥落。

 このときロープの最下段に後頭部を打ち、それがもとで脳内出血で亡くなる。

 

 これが、のちに、矢吹ー力石戦で力石徹が死亡するシーンのイメージにつながったといわれている。

 

  

 

 

 

 🥊もう一人、明日のジョーの主人公、矢吹丈のノーガード(両手ぶらり)戦法のモデルになったという仙台出身の人物がいる。

 

 日本フライ級チャンピオン斎藤 清作(たこ八郎)である。

 

 

 ノーガードで打たせて相手が疲れたところでラッシュをかけるスタイルが、矢吹丈の「両手ぶらり」のモデルになった。

 

 

 左眼が見えないハンデを相手に悟られないように、相手のパンチをかわさず打たれ続け、どんなに打たれても倒れず、耳元で「効いてない効いてない」とささやき続ける。

 

 対戦相手にはそれが本当に怖かったという。

 

 しかし、頭部へのダメージによりパンチドランカーとなり引退。のちコメディアンに転身する。

 

 

 下手な三題噺にもなっていなくて恐縮…

 ベーブ・ルースのついでに、これもボクシングつながり…グローブ擦り合うも何かの縁と思って…(汗)。